科学は他人事か

 金森修さんの「時流自論」(朝日新聞2004年10月24日朝刊)に、「科学は他人事か」との表題で知をめぐる専門家と非専門家の関係の話がある。ある出来事をめぐって専門知が必要とされる場合に、誰がそれをどのように語るのかに敏感にならざるをえないという話だったが、このことは科学技術に限らず情報技術や医療、法律にも同じことがいえるだろう。
 こうした議論で問題視されるのはマスコミュニケーションを成立させるテレビ・ラジオ・新聞であるが、それらの性格からして批判の対象になるのは避けられない。受け手はなにかを信じないと次の行動がとれないという難しさを抱える以上、マスコミュニケーションが可能にする速報性や大量伝達性は無視できず、何が語られるのかは問題にされなくてはならないからだ。
 トホホな発言がそれとしてリアリティを獲得してしまう前に、なんとかマスコミュニケーションにおいてそれを相対化できる発言の場はどうしても確保されるべきだろう。啓蒙的であっても、ある種の愚民観が見られても、何かを発言する以上はそれらから逃れられない。発言は発言によって揺さぶるしかなく、その意味で科学技術社会学や監視社会論などは必要である。
 相対化するため発言を過度の技術理解に回収してしまう(みんなが専門知を身につけるしかないとする)のはお粗末だと思うが、んじゃどこまでが「過度」ではないのかというと難しい。ウラン溶液製造過程とはなにができてできないのか、ユビキタス化にはどんな可能性と困難があるのか、などはどこまでが教養でどこからが専門知なのかは明確ではない。「新聞を読みなさい」的殺し文句はこの不明確さに生じる隙間に滑り込んでくるのだろう。
 科学は他人事ではない。しかし、どのようにして科学と向き合うのかといえば関心を持ち続けなさいとしかいいようがないもの事実だ。みんなが科学者を目指すのではない以上、それでも関心を維持できるメディアをどこかに持たなければならない。そのための最後の防波堤にマスコミュニケーションなるものを設定せざるを得ない現在においては、そこでの発言に耳を済ますのが精一杯のところなのだろう。
 となると、残される希望(?)は専門家が自分の発言にどのような倫理観を持っているのかと同時にマスコミュニケーションにどのような距離感をもっているのかではないか。とりわけ後者をテレビや新聞で知る機会は殆どない。集会やデモというような専門家→非専門家という運動やアジテーションではなく、カフェやサロンというまだ対話可能なカタチで専門家と語りあう機会を増やそうとしている動きは、ここでいう後者を知る機会としても意味があるのだと思う。なんだか“書を捨てよ、街に出よう” みたいだが、専門家も一人の人間だし、直接逢うことで良くも悪くも理解しようする点は疎かにしてはならないと思う。

サイエンス・ウォーズ

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