便利な言葉は無くならない。

 便利な言葉とは、どんな文脈でも恣意的に意味を与えることでなんとかその場をやり過ごせるマジックワードのことである。「感性」や「センス」についてはまだまだ悩み中なのですが、ふと「ロック」もなかなか都合良く使えるなと思った。
 「ロック」は格好悪いところが格好良い。この矛盾した用法こそ「ロック」の魅力である。「ロック」をダサいといってしまうのは簡単だけど、それもいってみれば大勢を惹き付けていることを引き受けた上での「ロック」への抗いであり、「ロック」から逃れられているとはいえない。その魅力としての「ロック」をちょっと考えてみよう。
 ここで、「ロック」はかつて“感じさせられるもの”であったとしてみる。きっかけは誰でもいい。ストーンズでもディランでもそれらを「ロック」と認めなくても。重要なのは、他者が私に語りかけてくることによって「ロック」を感じさせられるようになったということだ。○○は「ロックである/ない」といった語りは、こうして誕生したとしてみよう。
 ところが、しばらくしてその「ロック」はやがて自らが“感じていくもの”となっていくのではないか。ストーンズやディランや○○を「ロック」と思えるのは、ロックが「ロック」であると感じていく何かがなくてはならない。つまり、私が他者を「ロック」として読み込んでいくには、自分がそれを感じていくものがなくてはならないという認識の転換である。
 「ロック」をめぐる用法の混乱は、この“感じさせられるもの”と“感じていくもの”、つまり受動性と能動性の混同に由来していると考えられないか。重要なのは「ロック」そのものが何であるのかが問われないままに、この用法だけが自己循環していくことである。「ロック」そのものが何であるのかが問われないが故に、その解釈の隙間を利用して多様な文脈において恣意的に使用することができる。便利な言葉とは、こうした性格を持つからこそ「便利」なのではないだろうか。
 ある音を聴いたときに、「ロックってやっぱりダサいけれども、あの勘違いぶりはカッコいいよな、やっぱロックはロックだな」と思うことが少なくない。前者は私が他者によって“感じさせられるもの”であり、後者は私が他者を“感じていくもの”ものである。がゆえに「ロックはロック」でしかない。他者の「ロック」が私の「ロック」を刺激すると同時に、私の「ロック」こそ他者の「ロック」を感じ取っていくものである、としか言いようがないのである。
 広告制作者の戦後史において「感性」や「センス」を考える試みは、上のような捉え方を基本にしている。ある時期までは“感じさせられるもの”であったり、他者から受動的に指摘されるものでしかなかったそれらが、やがて能動的に“感じていくもの”となり、自らが言語化して獲得しようと努めたり、測定・育成しようとしていくような意味の変容である。現在の「感性」や「センス」をめぐる用法の混乱やうさんくささ(「ロック」をダサいといってしまう人がいるように、「感性」や「センス」と向き合おうとすることを意味がないという人は少なくない)は、歴史的な意味変容を明らかにしていくことで紐解かれ相対化されていくのではないか。
 ある言葉を信じることによって、それがどういう意味であれ、解釈と恣意的意味づけが許されていると同時にそれが機能する限りにおいて、ある程度の時間をやり過ごしたり、一時の幸せを感じられることがあるに違いない。便利な言葉は発明され続けなければならないのだ。「ロック」も「感性」や「センス」もその意味では20世紀に発明された息の長い便利な言葉なのではないだろうか。
 「ロック」の両面性については、みうらじゅんの『アイデン&ティティ』が詳しい。「本物のロック」を知りたい貴方のために。

アイデン&ティティ 24歳/27歳 (角川文庫)

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