君も変わった、僕も変わった。

oxyfunk2004-11-09

 ある飲み会で通信社の学芸部の方とお話した時のこと。僕の関心を明らかにしたところで、「デザイン界の人も最近になってわかりやすいお話をしてくれるようになった。原研哉さんや佐藤卓さんみたいにね…」っておっしゃっていた。こうした話はその方だけに限らない。デザインの話をする時に原さんや佐藤さんの名前が挙げられる機会はここ数年で多くなったと思う。きっと『デザインのデザイン』(岩波書店、2003年)は一つのきっかけだったのだろう。それがたとえば美術出版社から出ていたらどうなのか、その場合どれほど新聞の書評欄に取り上げられたのかという問いは勿論ありますけれども。とにかくそういうことも踏まえての啓蒙的な出版だったのではないだろうか。
 先の方とのお話で気になったのは「わかりやすいお話をしてくれるようになった」という点だった。本当にそうなのだろうかと思い、「それは僕たちがいままでよりもデザインの話に耳を澄ませるようになっただけのことではないですか?」と切り返した。どういうことかというと、「わかりやすいお話」というのは聴き手が会話のなかで判断していくものなので、解釈によってはどんな話もわかりにくいものとなる可能性を常に孕んでいるのではないかと思うのである。だから話し手がわかりやすく話をしても、会話が「わかりやすいお話」となるには聴き手の判断によって決まる。となれば、「わかりやすい」のは話し手の努力だけではなく、それをそれとして受け止める聴き手の耳があってこそである。デザインの話が「わかりやすい」ようになったのは、話し手の変化だけなくて聴き手の僕たちの変化でもあるのだ。
 それをデザイン・リテラシーと呼んでもいい。「読み書き能力」と訳されるリテラシー、デザインに対するそれを僕たちはここ数年で意識的・無意識的に鍛えてきているのではないだろうか。たとえばテキストエディタで書類を作成する時に、フォントの種類や文字の大きさ、空白の処理やグラフの作成に困ったことがあるとしよう。それがアプリケーション標準の技術だから「限られているじゃん」とかをいいたいのではなく、そうであってもなくても、現在の僕たちはあるテキストという内容を構成する際にそれと同時にその形式を選択・設定するという状況に置かれていないかということを確認したい。内容と形式を往復する状況、その瞬間に「デザイン」と意識的・無意識的に向き合っているのではないか。これは小さな例えでしかないけれども、もし僕たちの日常生活にこうした瞬間が少しずつ埋め込まれていったとするならば、僕はその過程にデザイン・リテラシーの萌芽があったと考えたい。
 デザインが「わかりやすいお話」として受け止められるようになったのは、たとえば上のように僕たちがデザインにかつてよりも内在的な状況に置かれるようになったからこそ、デザインに対して耳を澄ませるようになったんだと思う。だから「わかりやすいお話」をしているのは原さんや佐藤さんだけではないし、昔からデザイナーはいろんなところでお話をしてきているので、今になって読み返してみれば印象が異なることがあってもおかしくない。解釈に開かれている限り、お話は何度でも読み返せるのだから。
 他者の理解が困難な時、他者を「理解不能」といってしまうのは簡単なことだけれども、それを「理解可能」にしていきたいと思う限りは、語り手だけでなく聴き手の姿勢の変化も必要なのだ。それは本当に当たり前なことだけれども、それゆえに他者の変化だけを要請してしまう誘惑に無自覚なことも少なくない。現在、デザインやデザイナーのお話に耳を澄ますということは、これを考えるきっかけを与えてくれているのではないだろうか。
 デザインに関心を持ちつつある方にお勧めを4つ。