色紙は誰に語っているのか

 色紙をもらった。いつ以来だろうか。苔のように散在するメッセージ達。そんなに沢山あるわけではない。それでも凸凹した筆跡はフォントに馴らされていた僕の目をゆっくりと時間をかけて揉みほぐしてくれるだろう。
 この手の贈り物の「お約束」といえば、書き手と貰い手の関係性がよくわからないメッセージである。それは例えば初めて逢ったにも関わらず、いきなり別れを告げることを要請されるような状況において起こる。貰い手のことをよく知らないままとりあえず「はじめまして!」などと書いて/書かれてしまうようなことはないだろうか。
 手許の色紙には「元気があれば何でもできる!!」とある。嬉しいといえば嬉しいのだが、どうも自分に向かって書かれていないようにも読める。実際のところ僕はそのメッセージの書き手とは初対面だった。ここに書き手と貰い手の断絶性を見つけるのは難しくないが、それはどうでもいいような気がする。
 それよりもこのメッセージが明らかにしている重要なことは、「色紙を書く」という行為が貰い手という<他者>だけでなく、他の書き手という<他者>も内包しているということだろう。ゆえに色紙において個人的な想いを貰い手に告白することが困難になり、メッセージの書かれ方はある種の小さな公共性を内面化しながら、それに応じた書き方にならざるを得ない。貰い手を外すことなく他の書き手にも読んでもらえるようなメッセージ。「色紙を書く」ということはそうした複数の<他者>に向けたスリリングなメディア表現ともいえそうだ。
 貰えて嬉しかったです。ありがとう。