吉見俊哉、花田達朗、『社会情報学ハンドブック』、東京大学出版会、2004年

 いつまで続くかわからないがとりあえずいまのところは「社会情報学」を大切にしたい。60弱の「扉=項目」のなか、「進化とコミュニケーション」(平石界)、「リアリティ・テレビ」(北田暁大)あたりが響きとしては新鮮。
 進化論的視座からコミュニケーションを対象にすること。それはアナロジーによる説明なのか、それとも実証的に説明できることなのか。進化論的視座が自己批判知で有り続けれればよいのだが。
 あー、欧米において「ビッブブラザーの亡霊」が徘徊しているような番組が「リアリティ・テレビ」で、それはひとつのジャンルなのですナ。そういえば、素人がテレビに進出していく過程で、いつの間にか「「見られる」ことが欲望になり、「見る」ことが義務化していく」といった従来のテレビ的論理の転倒があるかもしれませんね。「テレビの向こう」ではなく「テレビの中で」視聴者を飼い慣らそうとした制作者と、「テレビの前で」ではなく「テレビにおいて」制作者を飼い慣らそうとした視聴者の<抱きしめ合い>はいかにして可能となったのかは是非是非明らかにしたいところである。にしても、テレビに出ることはどれほど人々の欲望を満たすものなのか。多メディア化した現在、テレビの社会的位置は従来より随分と相対化されたのではないか。がゆえに、<自分を社会に埋め込んでみたい欲望>をテレビがそんな独占できていない気がするのは僕だけか。
 マス・コミュニケーション研究が社会情報学化→学際情報学化にはならないという濱田純一の議論には同意。対談で「マルチチュード」を連呼しているかもしれない桂敬一にちょっと赤面。それでも、アクチュアリティを志向する彼のジャーナリズムへの想いはしっかりと読みとれます。