式典のデザインと記憶

 式典なるものに出た。所属組織が閉所されるのである。75年間の歴史、その結びにおいて特別に記憶にのこるような挨拶は見つからなかった。そんなにスラスラと語れてしまうものなのでしょうか。ええぃ、素直に言ってしまおう。この式典はいったい誰のために催したのだろうか。それがわからないまま、ただただぼんやりと僕はその場をやりすごしてしまった。
 マイクを回してほしかったといいたいんじゃない。疎外感を感じたとかとも違う。そんなことなら、傍らにいる知人に話しかけさえすれば済むことだ。それらとは違う不思議な感覚。それは、式典の挨拶における僕の<ターゲット・オーディエンスではないかもしれない不安>だ。
 所属している組織が閉じようとしている時だというのに、自分に向かって語られていない気がすること。それは出席者をみれば当たり前かもしれない。組織に在籍する者よりも、かつて所属または関係していた者が式典出席者の大多数を占めていた。同窓会ならそれでいい。ところが閉所式典における在籍者の<不在>は奇妙でならない。この式典はいったい誰のために催したのだろうか。
 式典後のパーティーでビール片手に彷徨いつつ思ったのは、「この式典はデザインされていない」ということ。式典は司会とスピーカーと聴衆さえいれば成立するというような単純なものではない。空間や時間の管理から機材や食事の手配まで、式典に参加するという経験を支援する仕組みは無数にあるのだ。それが整理されていないと、ハコに人が沢山いるだけという状態になってしまう。
 いやいや、そうした実働的なデザインは一生懸命なスタッフの方をみたかぎりしっかりと準備されていたに違いない。むしろ疑問に感じたのは、式典の思想的なデザインがなかったのではないかということである。それは挨拶の多くにも感じられた。誰に向かって何のために「閉所」を語るのか。「教育部がありまして・・・」とはいうけれども、式典にその在籍者が<不在>なこと。関係者でありながら声のかかることのなかった多くの学生に、この式典はいったい何の意味があるのか。それがわからないままの閉所式典は、その存在自体が忘却の彼方に追いやられてしまいそうな気がしてならない。
 閉所とはいえ、いや、がゆえに、式典のデザインの仕方によって記憶のされ方が大きく異なることに敏感になって欲しかったなーと素直に素直に思いました。