『ソラニン』の語り切れなさ

 好きな作品について語ろうとして、失敗することがある。なぜなら、好きな理由が「作品そのもの」にあるというよりも、「作品との関係」にあるからである(昔はどうでもよかった曲が、あいつとの思い出のなかで、いい感じに聞こえてくる…)。それゆえ、その関係を共有していない人には、その作品語りがどうでもよく聞こえるし、またそのように聞こえてしまうこと自体が、その作品を語っている人にはどうでもよくなってしまう。

 とするならば、素直にその作品との関係をバラすことでしか、その作品を囲い込んでいけなくなる。「作品」という単位の特権性が吹っ飛び、なんでもかんでもそのように呼べてしまえるのなら、それぞれの受容においてしか、「どういう意味で作品なのか」を示せない、というわけである。過剰な自分語り(作品を語るふりをした、自分を受け止めて!という話…)は耳障りかもしれないが、その気があってしているというよりも、いつの間にか、そのように喋らされてしまっている可能性もある。

 僕にとっての『ソラニン』(浅野いにお、全二巻、小学館)は、そういう作品である。あれやこれやと好きな理由を考えたけれど、その分だけどこかへと蒸発してしまい、またそれゆえに、作品の中身そのものを語ることがアホらしくなってしまう。わざわざ「名シーン」や「名台詞」として抜き出したところで、ここもあそこもといった重箱の隅をつつくような話になり、その分だけ「おつかれさま(苦笑)」となってしまうのだ。

 ここまでの意味で、『ソラニン』が好きなのは、多摩川水道橋とその一帯という幼少期から現在に至るまで大変馴染みのある風景が、ストーリーの舞台として設定されているからである(同じく『NANA』も)。いや、これは本当に奇妙な感覚で、あえて言えば、「だって、地元だもの」という、しょーもない決定論である。これでは作品の説明になっていないし、またあの橋に馴染みのない人には「へぇ、それで?」といった話なのもわかってる。しかし、それでもこの感覚は譲れないというわけだ。

 勿論、地元だけでなく、『ソラニン』を上京やバンド活動、それにゼロ年代の就職活動の難しさに「結びつけて」読むこともできる。しかし、他でもなく、この地元決定論は魅力的であり、またその分だけ、他者にうまく伝達できそうにもない。あえて言えば、作品に描かれている対象との間に、個人的な経験が積層しているだけなのに、それが不思議なくらい作品の読み方を枠付け、作品への愛情として現象してしまう。時間は不可逆であり、どうしようもなく代替不可能だからこそ、それがそれとして効いてしまうのかもしれない。

 このように考えると、不可逆で代替不可能な「昔の思い出」は、誰もが好きになってしまえる作品が制作できなくなってきた現代の、方法論かもしれない。作品世界の文脈を限定して、未知の未来に想像力を委ねるのではなく、鑑賞者それぞれの思い出に委ねることで、作品の文脈を無限に開いていく。こうして、作品はどうにでも語ることができるようになり、またそれゆえに、そのこと自体がどうでもよくなっていく。

 どんなに『ソラニン』が好きでも、他人がそれをどのように好きなのかには全く関心がなく、わざわざファンコミュニティ的に盛り上がることもない。また、作者の意図や映画制作の裏話も「知らぬが仏」である。そうした不思議な感覚は、このような動きのなかで成立しているのかもしれない。

 とはいえ、これは「おっさん読み」が前提の話。「若者のリアル読み」は、きっと別の次元なのだろう。映画公開は4月3日。サントラもDVDも、買うぞ買うぞ買うぞ。

多摩川水道橋
http://www.pancakeplan.jp/2009/01/05/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E9%81%93%E6%A9%8B-0517/
▼映画「ソラニン
http://solanin-movie.jp/
▼「あさのいにお」完全攻略
http://vgvd.jp/vv/goods/category/1369/

ソラニン 1 (ヤングサンデーコミックス)

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ソラニン 2 (2) (ヤングサンデーコミックス)

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