エドワード=サイードと姜尚中の彼方へ

oxyfunk2004-01-28

 月刊化した「smart」を本屋で立ち読み。あの窪塚洋介が表紙、そのうえインタビューも掲載。これは放っておけない。彼の著作を真剣に読み、その超越的なわからなさをインタビューアーがまじめに本人に質問していくという、ある種の「お笑い」企画。解読不能の文字群に埋め尽くされたファッション誌の紙面を僕は初めてみた。つっこみどころ満載なので、あらためてレポートしたい。
 夏に「アメリカ」を、冬には「サイード」を読んてきた姜尚中ゼミは本日終了。旧友に勧められ初めて『オリエンタリズム』を読んだ時、僕は「メウロコ」並のショックを受けたのを記憶している。いいたかったことを代弁してくれた気持ちがこみ上げ、なにもかもが「オリエンタル」化して見えた。それらをひとつひとつ指摘していくことの安っぽさに気がつくまでにどれほどの時間がかかったことだろう。
 『オリエンタリズム』はそれが取り上げたように「知と権力」の問題である。社会科学・人文科学において「対象を知る」ということの政治的意味。社会的世界における知と権力の認識論。サイードが目指した「他者を支配しない知識」とは可能なのか。
 「私は誰と『オリエンタリズム』について語り考えていけるのか?」、「「他者を支配しない知識」を目指したサイードの『オリエンタリズム』はそれを内破できたのか?」。まとまりのない僕の質問に姜尚中は「朝生」では決して聞けない用語を使いつつ丁寧に説明してくれたが、僕はその詳細を覚えていない。彼の「いいですか」を聞くと、みーんなふっと飛んでいってしまうのである。とにかく要約すれば、「自己認識と他者認識の間を自覚的に漂うこと。他者を語らなくてならないという構造のなかで、差異−アイデンティティをどのように引き受けていくのか」という問題返しだった。

□買い物
佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、1995年
 「aesthetic」をめぐる用語集。「感性」と「美学」の間の言説地図用。東京大学文学部の講座「美学概論」に基づいてるとか。

歴史学研究会編「資本主義は人をどう変えてきたか」講座『世界史』第4巻、東京大学出版会、1995年
 資本主義と身体の関係を知りたくて。経済の臭いがすると勝手におもいこんでいた本を手にとってこなかったいままでの自分に反省。いつかは考えてみたい資本主義。
 
荒俣宏『奇想の20世紀』日本放送出版協会、2004年
 新刊がでたらとりあえず手に取る荒俣ワールド。「未来を空想する力」を歴史的にみていくもの。万国博覧会、観光、百貨店など。なんかいい予感。
 
・篠原一『市民の政治学岩波書店、2004年
 この手の本はいつも悩む。そういう時は目次と注が頼りだ。「近代化」、「地球化」、「ハーバーマス市民社会論」、「ポピュリズム」、そして「討議的デモクラシー」。電車のなかの教養書かな。
 
馬場靖雄編『反=理論のアクチュアリティー』ナカニシヤ出版、2001年
 「赤い彗星」を思わせる装幀にある種の近寄りづらさを感じていた。恐る恐る手にとると、リチャード・ローティを「真剣に受け止め」「埋葬」する北田暁大を発見。ニューはニューでも、ニュータイプではない。「遅れてきたニューアカ」である。
 
パオロ・ヴィルノ著、廣瀬純訳『マルチチュードの文法』月曜社、2004年
 昨年末の集中講義「文化研究」(毛利喜孝)を思いだした。『文化=政治』と同じ出版社。「マルチチュード」ってどれほど強度ある言葉なのかな?