旧エンブレムの調査報告書とクリエイティブ・ディレクター

 2015年12月18日、「旧エンブレム選考過程に関する調査報告書」が発表された。「旧エンブレム策定過程の検証報告書」(2015年9月28日)で8名のデザイナーに参加要請文書を事前に送付していたこと及び、入選者3名はこの8名に含まれていたことが明らかになり、この事前参加要請と審査結果の関係について組織委員会は民間有識者に調査を依頼していたのである。調査概要と報告書の概要は、以下の通りである。

(1)外部有識者調査チーム
・鵜川正樹(公認会計士)、森本哲也(弁護士、元東京地検検事)、山本浩(法政大スポーツ健康学部教授)、和田衛(弁護士、元東京地検検事)
(2)検証方法
・メール、DVD等の資料検証。
・関係者のヒヤリング(組織委員会職員(マーケティング局担当者、制作局法務課の商標登録担当者を含む)、審査委員(8人中6人)、事前送付されたデザイナー8人などで合計27人、計32時間)
(3)調査内容
・参加要請文書の事前送付から入選作品の決定までの経緯
※「選考過程調査報告詳報(上) 1次審査通すため審査員につぶやき 映像で確認「隠れシードだ」」(http://www.sankei.com/affairs/news/151218/afr1512180040-n1.html
※「選考過程調査報告詳報(下) 「佐野作品は各審査委で一番多数の得票集めた」」(http://www.sankei.com/sports/news/151218/spo1512180022-n1.html

2020年東京五輪パラリンピック競技大会組織委員会が18日発表した旧エンブレム選考過程に関する調査報告書の要旨は次の通り。 (肩書は当時)
 【参加要請文書発出】
 大会エンブレムについて、デザイン界の権威である永井一正審査委員代表は、最高レベルのデザイナー少数が競い合う指名コンペティションで選定すべきだとの意見だった。
 大会組織委員会の槙(まき)英俊マーケティング局長は、開かれた公募方式が適切と考え、応募資格を一定の実績を有するデザイナーに限った公募コンペを決定した。
 ところが永井氏は公募では、日本を代表するデザイナーは参加を控える可能性があると考えた。槙氏は、永井氏と組織委の高崎卓馬クリエイティブ・ディレクターと協議し、佐野研二郎氏を含む計8人のデザイナーに参加要請文書を送った。この事実は公表されなかった。広く開かれたコンペを行うとしていながら、永井氏や高崎氏の主観で少数のデザイナーを選定し、公募発表前に秘密裏に送付したことは、選定に当たり何らかの情実が働いたのではないかといった疑念を招くおそれが高い行為で、不適切といわざるを得ない。
 【優遇措置の有無】
 永井氏は、参加要請した8人全員を無条件で2次審査に進め、慎重に審査すべきとの意向だった。槙氏と高崎氏は画策し、審査委員でもある高崎氏が8人の作品番号を知っており、投票数の途中経過が把握できることを利用すれば、8人の作品を2次審査に進められると考えた。
 1次審査は審査委員の投票で2票以上を得た作品が2次審査に進む。高崎氏は1次審査で、8人中7人の作品に投票。投票締め切りが迫った時、槙氏と高崎氏は、投票を終えた永井氏に対し8人のうち2人の作品が、審査通過に必要な2票に満たない旨をささやいた。高崎氏は永井氏を連れて2人の作品を指差しして特定し、投票札を渡した。永井氏は指示された2作品に次々と投票した。その結果、8人の作品の審査通過が確定した。
 8人のみに優遇措置を講じようとしたことは不適切だ。槙氏や高崎氏が、秘密裏に永井氏に耳打ちして、追加投票させた行為は明らかな不正で、国家的事業であるエンブレムの選定過程で、このような不正が実行されたことは、誠に嘆かわしい事態だ。
 【当選作決定への影響】
 2次審査に進んだのは37作品。このうち14作品が最終審査に進んだ。最終審査では審査委員の投票で最多票を得た佐野氏作品がエンブレム候補に決まった。佐野氏作品は1次、2次、最終審査の全ての過程で、得票数が最多だった。
 不正は1次審査に限り、永井氏、高崎氏以外の審査委員が関知しないところで、秘密裏に行われたもので、佐野氏作品を大会エンブレム候補として決定するという結論に影響を与えたとは認められない。永井氏が佐野氏を参加要請対象者に選んだこと自体に不合理な点は見当たらない。
 【調査範囲外の事項】
 槙氏は商標登録上の問題から佐野氏の作品の修正が必要となった際に、修正で対応するのか、次点を繰り上げるのかといった根本的な点について審査委に意見を求めることなく、佐野氏作品の修正を進めた。最終決定権が審査委にあるのか、組織委にあるのかなど、大会エンブレムの決定に関する審査委の責任と権限を明確かつ緻密に定めていなかったという点に問題があった。また組織委は8作品を入選作品とする旨記載し、公表していたが、入選作品を決める手続きすら行わなかった。
 【結び】
 「大きな目的のために不正を不正と思わない」。聞き取りの中で繰り返された言葉には「結果第一主義」にどっぷり浸(つ)かった仕事の進め方があった。しかし、手続きの公正さを軽視し、コンプライアンスに目をつぶる、なりふり構わぬ働きぶりは、現代の組織委には全くそぐわない。
 最も大きな瑕疵(かし)は「国民のイベント」「国民に愛される大会エンブレム」ということに思いをいたさずに、専門家集団の発想で物事を進め、「国民」の存在をないがしろにしてしまったところにある。作品がどんなに素晴らしくても、選定手続きが公正さを欠けば、国民の支持を得られるはずがない。再スタートを切った選定手続きは「私たちのエンブレム」と胸を張れる作品を公正に選ぶことが求められている。
(「旧エンブレム選考 調査報告書要旨」『東京新聞』2015年12月19日)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/tokyo_olympic2020/list/CK2015121902000212.html

 一言で言えば、「不適切な点と不正はあったが、出来レースではなかった」というわけである。この報告書は「事前参加要請と審査結果の関係」に注目しているので、そこを見ればそのように言えるのかもしれない。しかし、この報告書によって「何があったのか」はある程度知ることができたが、「なぜこんなことになったのか」を知ることはできない。
 審査委員の一人だった平野敬子氏のブログ記事(http://hiranokeiko.tokyo/)とも読み合わせてみたのだが、まだ明らかになっていないのは、「組織委員会にとってクリエイティブ・ディレクターとは一体何者であり、いかなる役割を与えられていたのか?」である。「出来レースかどうか?」は「事前参加要請と審査結果の関係」だけでなく、この点が明らかにならないと判断できないと考える。
 というのも、クリエイティブ・ディレクターは組織委員会のポストであるにもかかわらず、審査委員を兼ねていたからである。審査委員会の独立性を考えれば、このこと自体が奇妙に見える。組織委員会と審査委員会の両方を行き来し、審査委員代表と共に8名の参加要請対象者を選び、審査の過程で8名の作品リストを特権的に知り得たクリエイティブ・ディレクターには、そもそもいかなる役割が与えられていたのであろうか。この点は9月末に「旧エンブレム策定過程の検証報告書」が発表された時から申し上げてきたのだが(http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/20151002)、未だに明らかになっていない。
 日本社会で「クリエイティブ・ディレクター」という役職が語られるようになったのは、1960年代前半の広告代理業においてである(『〈広告制作者〉の歴史社会学せりか書房、2014年)。経済成長に伴って広告業が活性化するなか、多数のクライアントに対応していくための新しい管理職が必要となり、アートディレクターやコピーライターの上に広告制作全体を管理していくクリエイティブ・ディレクターを設置するようになったのである(中井幸一『アメリカのクリエイティビティ』美術出版社、1963年)。
 しかし、当時からこうした傾向は胡散臭がられていた。亀倉雄策によれば「広告業者がはずかしいようなキャッチフレーズを呼んでいるが、実状はそんなものは、どこにもないという気がしてならない」(「ニューヨークと東京の間」『ニューヨークのアートディレクターたち』誠文堂新光社、1966年)ものであり、横尾忠則によれば「だいたいね、広告界は横文字が多すぎますよ」(「原点から幻点へ」『デザイン』美術出版社、1969年11月号)と揶揄の対象でもあった。
 実際のところ、グラフィックデザイナー、アートディレクター、コピーライターなどはそれぞれに業界団体を結成することを通じて「職業の一つ」であることを主張していた。しかし、クリエイティブ・ディレクターが業界団体を結成することはなく、長い間「広告代理店の役職の一つ」に留まっていたと言える。
 こうした見え方が変わってきたのは、2000年代に入ってからである。一つには広告クリエイターが「クリエイティブ・エージェンシー」として独立する傾向が高まったこと、二つには広告業界の外部でもクリエイティブ・ディレクターが語られるようになったことが挙げられる。
 クリエイティブ・ディレクターという言葉が少し目立つようになってきたのは、2000年前後に広告代理店から独立するクリエイターが相次ぎ、新たな職場が「クリエイティブ・エージェンシー」として総称され始めた頃である。その嚆矢として知られるのは「TUG BOAT」(1999年設立)であり、電通から独立した岡康道(クリエイティブ・ディレクター)、川口清勝(アートディレクター)、多田琢(CMプランナー)、麻生哲朗(CMプランナー)から成り、広告代理店のようなメディア扱いを行わずにクリエイティブのみを手がける少数精鋭の広告会社という形を採っていた。
 クリエイティブ・ディレクターはこうした動きのなかでじわじわと新しい肩書きとして見えてくるようになった。例えば、博報堂を経て「SAMURAI」を設立した佐藤可士和は独立してからアートディレクターだけでなく、クリエイティブ・ディレクターとも名乗るようになった(厳密な使い分けをしているとも言いにくい)。また、博報堂を経て2003年に「風とロック」を設立した箭内道彦も独立してからクリエイティブ・ディレクターを名乗り始め、現在に至るまで実に様々なキャンペーンを手掛けている。
 もう一つは、2000年代になって企業のブランディング責任者がクリエイティブ・ディレクターと呼ばれ始めたという動きである。なかでもよく知られているのがファッション業界であり、服のデザインだけでなく、広告やイメージ戦略からショップの空間設計までブランディングの全てを任される。例えば、トム・フォードはグッチのクリエイティブ・ディレクターとして「これまでのファッションブランドではありえなかったシステムを作り上げ、ビジネスとしても大きな成功を収め」たようである(「今、成功するビジネスは、クリエイティブ・ディレクターが創る!?」『BRUTUS』(548号)マガジンハウス、2004年6月1日号)。
 広告業界とは微妙に異なるこのような見え方が出てきた結果、クリエイティブ・ディレクターは企業のブランディング責任者であるかのように語られ始める。こうした動きのなかでは、例えばアップル・コンピュータのスティーブ・ジョブズもクリエイティブ・ディレクターなのである(林信行スティーブ・ジョブズ:偉大なるクリエイティブ・ディレクターの軌跡』アスキー、2007年)。
 これらのことを踏まえれば、クリエイティブ・ディレクターとは2000年代以降に広告業界の枠を越えて企業のブランディング責任者として語られるようになってきたと考えられる。東京五輪2020の組織委員会におけるクリエイティブ・ディレクターにどのような役割を与えられていたのかは説明がなされないとわからないのだが、こうした流れの延長線上に設けられたポストであろうと思う。
 しかし、組織委員会に属するクリエイティブ・ディレクターは、いかにして旧エンブレムの審査委員を兼ねることができたのか。なぜマーケティング局長は入らず、クリエイティブ・ディレクターだけが審査委員会に入れたのか。そして、組織委員会と審査委員会の両方を行き来し、審査委員代表と共に8名の参加要請対象者を選び、審査の過程で8名の作品リストを特権的に知り得たクリエイティブ・ディレクターには、そもそもいかなる役割が与えられていたのであろうか。やはりこの点が明らかにならなければ、旧エンブレム問題は判断し切れないところがある。
 もちろん「良いもの」を選びたかったのであろう。しかし「良いもの」を選ぶ方法は、クライアントが民間なのか国家なのかで異なる。また審査委員代表が個人の考え(参加要請した8人全員を無条件で2次審査に進め、慎重に審査すべきとの意向)を述べることは自由だが、組織委員会としてそれを採用しないという判断や審査委員代表を他の方にお願いするという選択肢もありえた。組織委員会と審査委員会の関係が明確ならば、クリエイティブ・ディレクターが責任をもって決断すべきところだったと思う。
 しかし、調査報告書には「デザイン界の権威」という表現が審査委員代表に対して使われている。組織委員会のそうした理解の仕方が、「なかなか断りにくい」状況を生み出しているようにも見えなくもない。だとすれば、ブランディングの責任者だったのかもしれないクリエイティブ・ディレクターの役割とは一体何だったのだろう。そのあたりが知りたいのである。