五輪エンブレムの準備会について

 2015年9月1日に取り下げられた東京オリンピックパラリンピックのエンブレムは、組織委員会に「東京2020エンブレム委員会(仮称)を設置するための準備会」を設置し、「新たなエンブレム選定のための東京2020エンブレム委員会(仮称)のメンバー選定、旧エンブレム選定に関しての問題点の把握、その結果を踏まえた新たなエンブレム選定の基本方針の決定」を行うことになり、9月16日に準備会のメンバー六名と座長によるコメントが以下のように発表された。

▼メンバー
宮田亮平:東京藝術大学 学長(座長)
杉山愛:スポーツコメンテーター/元プロテニス選手
但木敬一:弁護士/元検事総長
夏野剛慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科 特別招聘教授
・マリ・クリスティーヌ:異文化コミュニケーター
・山本浩:法政大学スポーツ健康学部 教授/元NHKアナウンサー・解説委員
▼座長コメント
 東京オリンピックパラリンピックのエンブレムに関しては、非常に国民的にも関心の高いものとなっており、新たなエンブレムの策定に向けた準備会の座長に就任することは重責ではありますが、光栄でもあります。
 私としては、2020年のオリンピック・パラリンピックが日本全国で盛り上がるために、できるだけたくさんの方に参画いただきながら、国民の皆様に愛され、ときめきを共有できるエンブレムを作ることを目指していくよう努めてまいりますので、ご支援よろしくお願いいたします。
https://tokyo2020.jp/jp/news/index.php?mode=page&id=1459

 なおここまでの経緯としては、組織委員会が理事会の決議を経ずにエンブレムを取り下げたことを問題視する発言が、9月7日の日本オリンピック委員会(JOC)の理事会であがっていた(http://www.asahi.com/articles/ASH9765SXH97UTQP02M.html)。また9月11日には組織委員会自体がエンブレムの使用例として制作した画像8点のうち写真3点に画像の無断使用があったことが判明し(http://www.asahi.com/articles/ASH9C6VQ9H9CUTQP02P.html)、さらに9月14日にはもう1点(合計4点)の無断使用が判明していた(http://mainichi.jp/sports/news/20150915k0000m040076000c.html)。こうしたなかで、組織委員会では「最終候補に残った数点を公表し、国民の意見を聞いたうえで最終決定する選考方法を検討している」という報道も出ており(http://www.asahi.com/articles/ASH9864ZRH98UTQP033.html)、ようやく準備会の設置に至った状態である。

 本稿はこれまでの展開を踏まえつつ、ここまでに考えたことをメモしたものである。

(1)21世紀になってからは地方公共団体におけるマスコットキャラクターの選定などで市民参加の経験が積み重ねられているので、その関係者にヒアリングなどを行い、市民と行政とデザイナーの関係をどのように調停し、またそのこと自体をどのように市民に説明したのかを丁寧に調査しながら、新しいエンブレムの選定に向けて「市民の関わり方」を複数抽出することが可能ではないだろうか。そして、この複数の「市民の関わり方」のなかからどれをどのような理由で選択したのかを適切に説明すれば、少なくともこれまでよりは手続きの透明化が進んだようには見える。この路線でいけば「市民参加」の側面が目立つようにはなるが、専門性では評価の難しいデザインが選ばれることもある。

(2)エンブレムの選定とマスコットキャラクターの選定は区別する必要があるが、デザイナーの関わり方もいくつかの選択肢がありえる。エンブレムにおいてグラフィックデザインの専門性を重視する場合は、古くから印刷技術に親しんでいる世代とデジタルメディアにも親しんでいる世代の違いを踏まえる必要がある。またエンブレムの「展開力」を重視するなら、映像、ウェブ、空間において何をどのように評価しているのかを適切に説明する必要もある。

 組織委員会はクライアントとしてのニーズをもっと明確にし、それに適ったデザインを採用するのがもっともらしい。言い方を変えれば、審査委員会及び応募デザイナーに「丸投げ」したような形にはしないでほしい。取り下げ案のように「専門家」と「一般国民」という区別を強調するのではなく、デザイナーによる提案はクライアントとしての要望をどのように満たしていたのかという説明を尽くしてほしい。

 「クライアントありきのデザインにおいては原作と最終案は調整のなかで変わることもあり、コンセプトもそのなかで最終決定される」と設定しておけば、ある程度の自由度も保たれる。この路線でいけば「専門家」の側面が目立つことになるが、クライアントが説明を尽くすことで批判やあら探しに耐えうる、そして後世の人からも評価されるデザインが選ばれることもある。

(3)クライアントとしての態度はもっと明確にしてほしい。そもそも商用利用を前提にしていることを適切に説明し、それに対してどのような批判があっても、そういう前提でクライアントとしてどのようなニーズを持っており、その条件を踏まえたデザイナーによる提案を引き出す形にすれば今までよりもわかりやすいのではないか。

 アートとデザインの違いを混同されないためにも、クライアントありきのデザインにおいては原案から最終案までにデザインやコンセプトが調整されうることを認め、そのつど説明を尽くせばよい。絶対に批判されないデザインはないので、見た目の印象論に寄り切られない説明が求められる。

(4)『クローズアップ現代』(2015年9月3日、http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3700.html)で「どこまでを専門性として認めるかをみんなで考えていく」と述べたが、みんなが専門性をそれなりに尊重する社会であってほしい。そのためにも、クライアントはしっかり説明責任を果たすと同時にデザイナーを選んだことにも責任をもって対応してほしい。

 そのためにも、決定案だけを見せるのではなく、決定案に至るまでの候補を複数公開し、「どのような理由でほかでもなくこの選考方法にし、またこの決定案にしたのか」の説明を尽くすことが、専門性へそれなりに配慮をした市民への公開になるとは思う。また前案を取り下げるにいたった経緯とそれに対する見解も公式ホームページで適切に公開したほうが、信頼度は上がると考える。「失敗」への対応を褒めてもらえるようにすることが、今後の第一歩ではないだろうか。

エンブレム問題への見解のまとめ

 2015年8月28日に東京オリンピックパラリンピック組織委員会によってエンブレムの選考過程の説明があり、9月1日にはエンブレムの使用中止に関する記者会見があった。28日の説明は審査委員の代表である永井一正氏が「審査の過程も公表したほうがいい」(『朝日新聞』2015年8月26日)と述べたのを受けた形になっているが、そこで公表されたエンブレムの展開例の写真及び最終案とは異なる原案がインターネット上で再び「パクリ探し」の対象となり、その三日後にエンブレムの使用中止が発表されることになった。

 また、8月26日の時点で永井氏は「微修正を、大会組織委員会の依頼で何度か施した。審査委員に修正過程は伝わっていないが、皆さん最終案を承認したはずだ」(『朝日新聞』2015年8月26日)と述べていたのだが、そのこと自体が9月3日のNHKによる取材で再確認され、エンブレムの原案決定後は組織委員会と原作者の間で修正を繰り返し、審査委員会は発表一週間前に最終案を知らされていたことが明らかになった。エンブレムの白紙撤回を受け、再公募では「過程を公開して一つ一つの作業を理解してもらう形で進めていく」方向が探られようとしている(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150904/k10010215901000.html)。

 ここに至るまでの見解は、以下で公表した通りである。本稿では、その過程で気づいたことをメモしたものである。

・「グラフィックデザインと模倣の歴史的な関係:亀倉雄策佐野研二郎」(2015年7月30日)
http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/20150730
・「デザインは言葉である:東京五輪エンブレムと佐野研二郎」(2015年8月5日)
http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/20150805
・「アートディレクターと佐野研二郎」(2015年8月15日)
http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/20150815
・【ラジオ出演】「東京五輪エンブレム問題。その本質を考える?」(2015年8月18日、TBSラジオ『Session-22』)
http://www.tbsradio.jp/ss954/2015/08/20150818-1.html
・【記事内コメント】「「酷似」ネット次々追跡」『朝日新聞』(2015年9月2日朝刊)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11943116.html
・【記事内コメント】「Net critics central to Olympics logo scandal」『The Japan Times』(2015年9月3日)
http://www.japantimes.co.jp/news/2015/09/02/national/olympics-logo-scandal-highlights-power-of-the-internet-critic/#.Ver5WM4fNjc
・【テレビ出演】「東京五輪エンブレム“白紙撤回”の衝撃」『クローズアップ現代』(2015年9月3日、NHK
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3700.html
・【寄稿】「市民参加への道を探ろう」『毎日新聞』(2015年9月4日朝刊)
http://mainichi.jp/shimen/news/20150904ddm004070017000c.html

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・【記事内コメント】「現代デザイン考:五輪エンブレム問題/1 亀倉雄策の“呪縛”」『毎日新聞』(2015年10月27日夕刊)
http://mainichi.jp/shimen/news/20151027dde018040061000c.html
・【対談】河尻亨一+加島卓「五輪エンブレム問題、根底には「異なるオリンピック観の衝突」があった:あの騒動は何だったのか?」『現代ビジネス』(2015年12月28日)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47099
・【対談】河尻亨一+加島卓「「五輪エンブレム調査報告書」専門家たちはこう読んだ〜出来レースではなかった…その結論、信じていいのか?」『現代ビジネス』(2015年12月29日)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47141
・【対談】河尻亨一+加島卓「デザイナーをアーティストに変えた広告業界の罪〜日本のデザインはこれからどうなる?:五輪エンブレム騒動から考える」(2015年12月30日)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47191

※被引用記事:増田聡「オリジナリティと表現の現在地──東京オリンピック・エンブレム、TPP知的財産条項から考える」
http://10plus1.jp/monthly/2016/01/issue-03.php

(1)TBSラジオ『Session-22』に主演した時は弁護士の福井健策さんと一緒だったので、法的な説明は福井さんにお願いし、私はデザインに関する説明(アートディレクターとグラフィックデザイナーの違い、デザインにおける責任の所在、インターネット以前と以後のデザインへの批判の違い)に徹するように努めた。事前の打ち合わせでは著作権、商標権、意匠権の違いを説明してもらえると大変助かるとお願いし、番組のなかでは著作権と商標権の違いを説明してもらう形になった。著作権侵害としての「パクリ探し」が行われていた状態だったが、オリジナリティを主張するアートとは異なり、クライアントありきのデザインに著作権法がどこまでどのように適用されうるのかを見極める必要があると考えたからである。

 シンボルマークなどのグラフィックデザインはクライアント側で登録する商標権と関連付けられてきた。しかし、原作者(デザイナー)のオリジナリティが著作権の水準で語られることはこれまで多くはなかった(知恵蔵裁判やフォントの事例など)。現在のところ、福井さんは「一つは対象マーク、つまり劇場ロゴが著作物にあたること、二つ目は今回のエンブレムがロゴと実質的に類似していること、三つ目は佐野さん側が劇場ロゴを見たことがあること。この三つがすべてそろわないと著作権侵害は成立しません。さらに、三つの立証責任はすべて訴えたベルギー側にあります」との見解を示している(http://mainichi.jp/premier/business/entry/index.html?id=20150904biz00m010047000c)。

(2)8月28日の組織委員会による説明は、エンブレムの選考過程をかなり具体的に明らかにしたものだった。このような展開にならざるを得なかった今回の事情があるとはいえ、何事もなければ最終案しか知らされなかったであろう私たちが、7月24日の発表に加えて、8月5日の原作者によるデザインの説明、8月28日の選考過程の具体的な説明まで知れるようになったのは、少なくとも今までなかったことであり、結果的には透明度が上がったと考えることもできる。

 選考過程の具体的な説明は、グラフィックデザイン業界的における「いつものメンバー、いつものやり方」を改めて浮上させることになった。その結果として、「いつものメンバー、いつものやり方」の恩恵を受けてきたデザイナーとその恩恵を受けてこなかったデザイナーとでは、今回の事態に対して異なる反応が可能になっているように見えた。

 また、原案と修正案と最終案の違いが判別できるようになり、原作者によるデザインの説明が最終案にしか対応していないようにも見え始めた。現時点で原案のコンセプトは公表されてなく、原案に対しては視覚的な印象論を述べるしかない状態である。「クライアントありきのデザインにおいては原作と最終案は調整のなかで変わることもあり、コンセプトもそのなかで最終決定される」と組織委員会が説明すれば、もう少し別の見え方が可能だったのかもしれない。

 組織委員会及び審査委員会はエンブレムの「展開力」を評価したと説明していたが、「評価の高い展開力」と「評価の低い展開力」の違いを示されたわけではないので、現時点でもあのエンブレムの「展開力」をどのように評価すればよいのかは十分に定められていないように思う。また修正案に対して「躍動感が少なくなってしまった」という意見も出たようだが、これについても「躍動感が多い状態」と「躍動感が少ない状態」の区別が示されなかったので、十分な説明にはなっていなかったように思う。

 さらに、1964年東京五輪のシンボルマーク、1972年札幌五輪のシンボルマークの隣に2020年東京五輪のエンブレムが並べられたことで、1998年長野五輪のシンボルマークの位置づけがよくわからなくなった。組織委員会の説明によれば、1998年長野五輪では広告代理店によるコンペが行われ、米国のランドアソシエーツ社が作成したシンボルマークが選ばれている。2020年東京五輪のエンブレムにおける亀倉雄策氏へのやや過剰な関連付けは、こうした1998年長野五輪のシンボルマークの「不可視化」とセットになっているようにも見えた。グラフィックデザイナーと広告代理店の関係がどのようなものなのかは、なかなか見えてこない。

(3)9月1日の記者会見では、「専門家の判断」と「一般国民の理解」の区別がやや強調されすぎたように見えた。原案のコンセプトが公表されていれば、それが最終案に向けて調整されていく過程の説明を通じて、先行してしまった視覚的な印象論をある程度は抑えることができたのかもしれない。もちろんコンセプトがあれば安心というわけではない。同じデザインに複数のコンセプトを与えることは可能であり、コンセプト次第で見え方が変わることもある。そもそもデザインとはそんなものであり、それを『クローズアップ現代』(2015年9月3日、NHK)では「面白いですよね〜」と表現したのである。

 また「国民の支持が得られない」ということも語られたが、その調査データが示されたわけではなかった。質疑応答でもこの点が聞かれていたが、組織委員会は「誰なのかといっても答えはない」とした上で、「さまざまなメディアを通じ、あるいはそれ以外のものを通じて、出てきた意見というものを総合的に判断」したという。7月末から8月末にかけてインターネット上で「パクリ探し」が話題となり、それを各種メディアが取り上げていたことは事実だと思うのが、こうした状態を「国民の理解」として判定する材料が示されたわけではない。事態が急展開するなかで対応に難しい点も多々あったと思うが、説明の適切さとしては不十分だったように思う。

(4)『朝日新聞』の記者からの質問は、「エンブレムをめぐる今回の騒動の原因は何か」と「デザイン業界と一般市民の感じ方の違いをどのように理解するのか」だった。実際に記事になったのは、「専門家のデザインで満足するより、ゆるキャラのように、隙のあるデザインを応援して育てるのがネットが発達した今の市民参加型社会。皆が参加したということも価値を持ち、専門家にとっては厳しい時代だ」という部分だが(「「酷似」ネット次々追跡」『朝日新聞』2015年9月2日朝刊)、最初はこの三倍程度の分量が予定されていた(笑)。

 記事に「デザイナーは裏方的な存在で、業界内での評価が重んじられてきたとされる」と書かれた部分は、こちらへの取材を踏まえた記者が書いたものである。私自身はそのような表現を好まないので、コメントとは別枠の扱いになった。クライアントありきのデザインをアートと区別するのが重要だと考えていたのだが、「裏方的な存在」や「業界内での評価」という表現はどうしうても自分の発言として認めることができなかった。インターネット版では、「多様な価値観が表れるネットの世論は、良いデザインを皆で褒めるよりも、だめなデザインを探す方向に進みやすく、業界内評価の限界が出てきた」という文章が先のコメントの前に加えられている。取材では「専門家」という用語で一貫させていたのだが、記事では「業界」と読み替えられることになってしまった。

(5)NHKクローズアップ現代』は8月末から取材協力をしており、「今回の騒動の受け止め」「パクリ批判への拡散」「背景にある業界の構造」「デザインの評価の変遷」「今回の問題の影響」などが質問されていた。その時点ではどのタイミングで放送するのかの見極めが難しく、どのような番組になるのか想像もつかなかった。9月3日に放送するのが前日の午前中に決まってからは急展開で、「組織委員会の対応への評価」「ネット上での批判が高まった理由」「これからの送り手と受け手に求められる姿勢」「この先の対応への見解」などが求められていた。

 衝撃的だったのは、放送直前に「スクープ」(エンブレムの原案決定後は組織委員会と原作者の間で修正を繰り返し、審査委員会は発表一週間前に最終案を知らされていたこと)が明らかになったことだった。これによって用意していた想定問答は見事に崩壊し(涙)、番組冒頭のビデオを受けたスタジオの最初の場面では、国谷裕子さんの投げかけに対してズレた応答をすることになった。リアルタイムで進行する事態を生放送で伝えるとは「こういうことなのか!」と思わされた瞬間だったのだが、インターネット上での実況では「?」が連発していたようである(笑)

 国谷さんとの事前打ち合わせで、「同じデザインでも、コンセプト次第で見え方が変わる」という話が良さそうですねと決まった。今回の事態をそのように理解したくない方々には「意味不明」だったのかもしれないが、一ヶ月以上も緊張が続いてきたなかで、別なる理解の可能性を示すことは社会学的にとても重要だと考えていた。それを「面白いですよね〜」と表現したのである。今回の事態に対して、「炎上」とは異なる関わり方がありえるかもしれないことを示すのはとても重要だと考えていた。

 また、二回目のスタジオに戻る直前に「デザインとアートの違いを強調してから、今後のお話をしましょう」と国谷さんと決めた。「役割としてはデザイナー、見え方としてはアーティスト」という理解の仕方をどのように解除するのかは、この一連の騒動でとても苦労したところである。デザイナーが「アートディレクター」と名乗ったりすることもあるので、一般的にはわかりにくい。クライアントありきのデザインはニーズに応えられているかどうかが評価のポイントであり、それはアートにおける作者の独創性とは異なると何度も説明しているのだが、しばしば混同されてしまう点である。

 為末大さんとの共演は、結果的にうまくいったと思う。「専門家の判断だけでなく、市民参加による民主的な選択という方法も増えたと理解したい」とこちらが話したところで、彼が「五十年もつデザインを」と合いの手を入れてくれたので、私たちが現在どのような課題を抱えているのがわかりやすくなったと思う。専門性を強くとれば「もっと亀倉雄策に近づこう!」と言えるかもしれないし、市民参加を採用すれば「もう亀倉雄策は忘れよう!」という方向にも動き出せる。どちらであれ適切な説明が与えられれば、それなりに「もっともらしさ」を与えたことにはなるし、そもそも絶対に批判されないデザインなんて存在しない社会になったと思う。

 さすがに放送で話すことはできなかったが、今回の事態は次のような複雑さを明らかにしてくれたようにも思う。一つには、デザインを視覚的な水準で評価するのか、それともコンセプトとの対応で評価するのかという問題系があること。二つには、その評価を専門家で行うのか、それとも市民参加で行うのかという問題系があること。今回の「パクリ探し」は視覚的な水準での評価が市民参加によって行われたものであり、原作者による反論はコンセプトとの対応が専門家によって評価されたものである。このような複雑さが見えにくいまま、28日の会見では「専門家の判断」と「一般国民の理解」と表現されたのではないだろうか。

 『クローズアップ現代』をなんとか乗り切れたのは、「市民参加への道を探ろう」という『毎日新聞』(2015年9月4日朝刊)の原稿を既に書き上げていたからである。この一週間で考えたことのまとめでもあるので、本稿の最後にこれを転載しておく。

 「五輪エンブレムの使用中止と再公募が決定された。そもそも新国立競技場のデザインや観光ボランティアのユニフォームが話題になっていたので、エンブレムの原作者が誰であっても大騒ぎになる条件は整っていたといえる。これに加えて模倣の疑いをかけられ、「デザインとしての評価対象」から「パクリ探しの対象」へと見え方が変わり、誰でも大騒ぎできるようになった。その結果、エンブレムへの視覚的な反応とデザイナーによるコンセプトの対立関係が浮上した。
 グラフィックデザインの模倣に対する批判は、一九五〇年代からあった。六〇年代にはデザイナーを目指す学生が増え、業界誌の読者投稿欄で「元ネタ探し」が行われ、それに対する反論が掲載されることもあった。現在のように視覚的な類似性だけを捉えた批判が増えたのは、企業がシンボルマークを制作するようになってからである。一九七〇年の大阪万博のシンボルマークも、選考のやり直しが行われている。
 こうした歴史的経緯の上にインターネットが登場し、専門家でなくてもデザインを批判できるようになった。二〇〇六年には私立大学のロゴマークが話題となり、二〇〇八年には奈良県平城遷都一三〇〇年祭の公式マスコット「せんとくん」のデザインをめぐって議論が沸騰した。こうして、インターネットはデザインを社会的にチェックする機能を担うようにもなってきた。
 その結果として、「みんなが褒めるデザインを探す」というよりも「突っ込みを入れやすいデザインを探す」という傾向が生まれた。「ゆるキャラ」ブームもその一つだ。「未熟さ」や「緩さ」があればみんなで応援することができ、それによって行政への市民参加も達成したことにできる。その意味で、専門家による洗練されたデザインでは満足できなくなり、隙間のあるデザインをみんなで応援しながら盛り上がる社会になったと考える。
 九月一日の会見では専門家と一般市民の区別が強調された。デザインは商品の売上とは別に専門的な評価基準をそれなりに積み重ねてきたが、そのこと自体が市民には見えにくかったのかもしれない。したがって公共的な仕事を行う場合、デザイナーは市民への説明責任が今まで以上に求められ、また市民はデザイナーによる説明にもっと耳を澄ます必要がある。コンセプト次第で、デザインの見え方が変わることもある。
 ひとりひとりの意見が今までより見えやすくなった市民参加型社会では、専門家のあり方及びデザインの評価をめぐる合意形成が難しい。専門家を重視すれば、批判に耐えうるデザインが必要になる。市民参加を重視すれば、専門性では評価できないデザインが選ばれることもある。今回の件は「専門家対ネット」という構図ではなく、デザインに対する評価方法が一つから二つに増えたと理解したほうがよい。他方で、「パクリ探し」以外の盛り上がり方を見つけられれば、市民参加型社会のデザインはもっと面白くなると思う。」

・加島卓「市民参加への道を探ろう」『毎日新聞』(2015年9月4日朝刊)

アートディレクターと佐野研二郎

 2015年8月14日、サントリービールの景品をデザインしていた佐野研二郎(アートディレクター、多摩美術大学教授)が謝罪の声明をホームページで出した(http://www.mr-design.jp/)。8月12日までに「ネット上などにおいて著作権に関する問題があるのではないかというご指摘が出て」いたことを踏まえ(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1508/13/news087.html)、景品(トートバック)30種類のうち8種類の発送を止め(http://www.suntory.co.jp/beer/allfree/campaign2015/index.html)、「その制作過程において、アートディレクターとしての管理不行き届きによる問題があった」と認めたからである(http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1508/15/news016.html)。

 このように他でもなく佐野研二郎が注目されているのは、彼が東京オリンピックパラリンピックの「エンブレム」をめぐって模倣の疑いをかけられ(http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/20150730)、それに対する説明を行ったという経緯があったからである(http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/20150805)。また今回も視覚的な類似点への気付きがインターネットで拡散・連鎖したものであり、それに対してクライアントやデザイン関係者が対応していくという形をとっている。順番的に言えば、まず東京オリンピックパラリンピックの「エンブレム」で佐野研二郎が注目され、その後に「佐野研二郎のこれまでの作品を徹底調査したら大量にパクリが見つかった」(http://netgeek.biz/archives/45562)というように、インターネット上で追求され始めた。上の謝罪は、こうした指摘に対応したものである。

 本稿では、佐野による今回の対応が東京オリンピックパラリンピックの「エンブレム」の時とは大きく異なり、「アートディレクターとしての管理不行き届きによる問題」とされた点に注目したい。というのも、この対応の違いに注目することで、佐野が今回の謝罪において「東京オリンピックパラリンピックのエンブレムはMR_DESIGNで応募したものではなく、私が個人で応募したものです」と弁明したことの意味がよりよくわかると思うからである。そのためにも、まずは「アートディレクター」が広告やデザインにおいてどういう役割を担っているのかを解説したい。

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 さて、多くの人にはどうでもよいことだと思うのだが、「アートディレクター」という言葉の歴史は長い。アメリカでは1920年6月に「Art Directors Club of New York」が53名の会員で結成され、日本では1952年9月に「東京アド・アートディレクターズ・クラブ」(以下、東京ADC)が22名の会員で結成されている。そしてアメリカにおけるアートディレクターは「芸術の活用に商業性を助言し、商業の必要性に応じて芸術を演出していく非常に専門化された職業」と捉えられ(The Art Directors Club of New York. Ed., Art Directing. Hasting House. 1957)、日本におけるアートディレクターは「経営者と宣傳技術者を結ぶ紐帯」(新井静一郎『アメリカ広告通信』電通、1952年)と考えられていた。2015年4月の時点で東京ADCは「アートディレクターの専門的職能を社会的に確立、推進する」ため、会員に対して賞を与え、優秀作の展覧会を行い、『ADC年鑑』という刊行物を毎年出している(https://www.tokyoadc.com/new/about/index.html)。

 なお、広告やデザインにおいてアートディレクターになるにはそれなりの時間がかかるものである。佐野の場合でいえば、多摩美術大学グラフィックデザイン科を卒業し、1996年に博報堂に入社した時はグラフィックデザイナーとして採用され、「プール冷えてます」(としまえん、1986年)などで知られる大貫卓也(アートディレクター)のグループに配属されている。佐野自身の回想によれば、彼がアートディレクターを担うようになったのは「ニャンまげ」(日光江戸村、1998年)キャンペーンからであり、以下のように仕事の見え方が変わったという。

 「それまではいろんな人の意見を聞いてバランスを取っていたけど、自分がこれがいいと思ったらどんどんカタチにしていきました。そのやり方で、グッズも作ったらそれも売れたりして、自分が面白いと思ったことはどんどんやっていいんだとわかったんです。
 それまでは我を出してはいけないと思っていたけれど、誰かの思い込みで突っ走ったもののほうが表現としておもしろかったり、強くなるということを学びました」(佐野研二郎「クリエーターズファイル:人をハッピーにするデザイン」http://biz.toppan.co.jp/gainfo/cf/sano/p1.html)。

 ここでは二つのことが言われている。一つにはグループ作業において「いろんな人の意見を聞いてバランス」を取る立場から、「自分がこれがいいと思ったらどんどんカタチにして」いく立場へと変わったことである。二つにはそうした立場の変更によって「我を出してはいけない」と思うことから、「誰かの思い込みで突っ走ったもののほうが表現としておもしろかったり、強くなる」と思えるようになったことである。要するに、グラフィックデザイナーからアートディレクターになるとは、グループ作業の一員として仕事をする立場からグループ全体の方向性を決定する立場になることなのである。

 そのため、グラフィックデザイナーに比べてアートディレクターの数は少ない。例えば2015年8月現在で、日本グラフィックデザイナー協会には約3000名の会員がいるのに対して(http://www.jagda.or.jp/about/)、東京ADCの会員は80名である(https://www.tokyoadc.com/new/about/index.html)。もちろん、グラフィックデザイナーやアートディレクターを名乗る者がこれらの組織に全員所属しているとは思えないが、前者に対して後者の数が圧倒的に少ないのは事実である。また東京ADCの会員80名を生年代で分類してみると(不明者2名を除く)、1920年代が1名(永井一正)、30年代が11名、40年代が20名、50年代が17名、60年代が19名、70年代が9名、80年代が1名(長嶋りかこ)であり、基本的にはある程度のキャリアを積んだベテランがアートディレクターを名乗っている状態にある。

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ここで注目したいのは、このアートディレクターという言葉が日本社会でどのように理解されてきたのかという点である。その歴史的な詳細については専門書を参照してほしいのだが(加島卓『〈広告制作者〉の歴史社会学せりか書房、2014年)、ここでは佐野研二郎が尊敬するという亀倉雄策がまたしても独特な役割を果たしていたことを紹介したい。東京ADCは1961年に「東京アド・アートディレクターズ・クラブ」から「東京アートディレクターズクラブ」に改称したのだが、その時に亀倉は次のような発言をしている。

「アートディレクターには二つのタイプがあるように思う。そのひとつは技術を他の人から求めて、自分は方向と出来上がりに責任を持つ人である。もうひとつは方向、技術、出来上りまで自分一人で責任を持つ人である。…(中略)…。私自身は後者に属するわけだが、この姿勢が広告製作上絶対正しいとは思っていない。しかし自分自身の限界を知り、その区域を守るなら、あるいはこの方がよいかとも思う」(亀倉雄策「創造性を高める」、東京アートディレクターズクラブ(編)『別冊 広告美術年鑑1962-3』美術出版社、1962年)。

 先にも確認したように、東京ADCの結成時においてアートディレクターは「経営者と宣傳技術者を結ぶ紐帯」、つまり経営者とデザイナーを媒介する中間的な存在として意味付けられていた。しかし、ここではそのアートディレクターに「二つのタイプ」があるとされている。そして、「そのひとつは技術を他の人から求めて、自分は方向と出来上がりに責任を持つ人」であり、「もうひとつは方向、技術、出来上りまで自分一人で責任を持つ人」だというわけである。広告史やデザイン史的にいえば、1950年代においてアートディレクターはデザイナーと区別された役割だったのだが、1960年代になってデザイナーを兼ねたアートディレクターという新たな理解が生まれるようになったのである。

 それでは、どうしてこのような理解の上書きが生じたのか。それはアートディレクターという役割がアメリカから輸入されたものであり、日本のやり方と齟齬を来すと考えられていたからである。例えば、「組織の中枢にいて、社会活動の個性的表現の軸心をなしているアートディレクターが、アメリカ全体では二千人以上いるのに、日本にはこれにピタリと該当する人が一人もいない」(新井静一郎『アメリカ広告通信』電通、1952年)と1950年代に指摘されていた一方で、1950年代後半にアメリカ視察を行った亀倉は以下のように述べている。

「1年半前にアメリカに行って、実際にアメリカの人達の仕事ぶりを見たのですが、日本人から見ると余りに細分化されすぎている。たとえば、レイアウトする人、活字を選ぶ人、紙の質を選ぶ人といろいろに組織が細分化されている感じがしたわけです。…(中略)…わたしはこの細分化に反対している一人であります。日本はアメリカの非常によい影響も受けましたけれども、非常に悪い影響も受けています。…(中略)…。そういうなかで、このような組織の中に入れられてしまったら、個性がなくなってしまうのではないか、私が一番心配しているのは、日本にアメリカのものとそっくり同じものを持ち込むということです」(亀倉雄策「討論」『世界デザイン会議議事録』美術出版社、1961年)。

 ここではいくつかの区別が重ね合わせて論じられている。一つにはアメリカと日本を区別することである。二つには組織と個性を区別することである。三つにはアートディレクターとグラフィックデザイナーを区別することである。このような区別を用いて亀倉は、「組織」を前提にしたアメリカのアートディレクターという役割とは別に、こうした「細分化」した作業に回収されない「個性」を活かせる役割(グラフィックデザイナー)があってもよいではないのかと発言しているのである。

 先に亀倉がアートディレクターを「技術を他の人から求めて、自分は方向と出来上がりに責任を持つ人」と「方向、技術、出来上りまで自分一人で責任を持つ人」の二つに分類したことを紹介したが、この二つに対応するのがここで紹介した「「組織」を前提にしたアメリカのアートディレクターという役割」と「「細分化」した作業に回収されない「個性」を活かせる役割(グラフィックデザイナー)」である。つまり、亀倉は「アメリカ/組織/アートディレクター」という組み合わせを想定することで、「日本/個人/グラフィックデザイナー」という組み合わせも作り出していたのである。

 1960年代になってアートディレクターの理解が上書きされたのは、このような二つの組み合わせに対応させる必要があったからである。この二つに対応させれば、1950年代のようにアートディレクターとデザイナーを区別する必要はなく、デザイナーを兼ねたアートディレクターもありえるという考え方に至れるからである。このようにしてアートディレクターとデザイナーの区別は曖昧なものとなり、広告やデザインを担当する者が結局どちらとして関与しているのかがわかりにくくなってしまったのである。

 なお、当の亀倉はグラフィックデザイナーであり続けることを選択していたのだが、東京五輪1964のポスター制作においては「私自身もアートディレクターというものの本当の仕事をした」と語っている(亀倉雄策「オリンピックポスター第3作が終わって」『デザイン』美術出版社、1963年7月号)。しかし別の史料によると、バタフライで泳ぐ男性をメインモチーフにした第3作目のポスターは、東京五輪1964の「組織委員会の一部から、「水上日本であるのに、外人を使うとは何事か」と不思議な横槍が入って、このネガはついに陽の目を見ないで終わった」後に、撮影され直したものである(村越襄「「水を凍らせろ」という電話以後」『デザイン』美術出版社、1963年7月号)。

 また別の資料によれば、そこで「組織委員会の上層部は私(引用者註:亀倉雄策)と政治家の間で板ばさみ」になり、「結局、頼み込まれて私が引きさがることになった」という(亀倉雄策「オリンピックと選挙のポスターについて」『JAAC』(第15号)日本宣伝美術会、1963年)。要するに、亀倉は自分の裁量で判断できない調整事が多いことをよく知っていたからこそアートディレクターとは名乗らず、自分一人で制作物に責任を持ち続けるためグラフィックデザイナーに徹したのである。

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 ここまでを踏まえると、佐野研二郎が今回において「東京オリンピックパラリンピックのエンブレムはMR_DESIGNで応募したものではなく、私が個人で応募したものです」と弁明したことの意味がわかってくる。つまり、佐野において東京オリンピックパラリンピックのエンブレムはグラフィックデザイナーという個人の水準で関わったものである。そして対して、サントリービールの景品はMR_DESIGNのアートディレクターという組織の水準で関わったものである。だからこそ、今回の対応は「アートディレクターとしての管理不行き届きによる問題」とされたのであり、東京オリンピックパラリンピックのエンブレムの時のようにデザインをどのように見ればよいのかいう丁寧な説明はなされなかったのである。

 広告やデザインを担当する人がアートディレクターやグラフィックデザイナーと名乗ることは多くの人にはどうでもよいことかもしれないが、このように責任の所在が問題となる場合はどうでもよくない。アートディレクターとグラフィックデザイナーとでは、責任の取り方が違うのである。なお、これはちっともおかしなことでもない。組織として仕事をしているのか、個人として仕事をしているのかは私たち自身にとっても重要な区別であり、佐野におけるアートディレクターとグラフィックデザイナーの区別はそのバリエーションの一つなのである。

 私たちは複数の役割を使い分けることで、実に様々なことを達成している。だからこそ、そのつど自分が今どの役割を担っているのかを相手に示し、それに合わせてもっともらしい発言をする。もちろん相手と理解が一致しないこともあるが、それゆえに私たちはお互いに理解を示し合い、和解や誤解を達成していくことは誰もが経験することだろう(前田泰樹+水川喜文+岡田光弘(編)『エスノメソドロジー新曜社、2007年、pp.100-107)。こうした意味において、今回の謝罪はアートディレクターとしての役割が可能にした責任の取り方だと言えよう。

 にもかかわらず、インターネット上での批判を見ると、民族的な属性に短絡させたり、親族との関係から説明しようとしたり(http://ameblo.jp/usinawaretatoki/entry-12061609375.html)、小保方晴子と同列に扱おうとしたり(http://www.insightnow.jp/article/8591)、「役割」ではなく「人格」に焦点が当てられてしまっている。おそらく、これらのことはアートディレクターやグラフィックデザイナーを「作家」として理解したがる視線とも関係があろう。つまり、人間として評価しようとする態度は、人間に対して攻撃してしまう態度とコインの裏表である。

 もちろん、「人格」や「人間」として理解したい人がいてもいい。しかし、東京オリンピックパラリンピックのエンブレムやサントリービールの景品に関していえば、佐野研二郎が担った「役割」をめぐって生じた問題であり、それらについてそれぞれの役割から佐野は責任を果たそうとした。私たちはそのことにもっと耳を澄ましてもよいのではないか。このような人様の役割に応じた対応に目を向けず、なんでもかんでも人格概念で人様を理解してしまうのは、かなり気持ち悪い社会ではないかと社会学を学ぶ者としては思ってしまうのである。(2015.8.15)

※追記:みなさまより多くのコメントを頂きましたが、既にお知らせしましたようにコメント欄を閉じさせて頂きました。(2015.8.17)

エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)

エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)

※参考:MR_DESIGN(佐野研二郎)による説明

今回の事態について

 今回取り下げた8点のトートバックのデザインについては、 MR_DESIGNのアートディレクターである私、佐野研二郎の管理のもと、 制作業務をサポートする複数のデザイナーと共同で制作いたしました。そして、誠に遺憾ではありますが、その制作過程において、 アートディレクターとしての管理不行き届きによる問題があったと判断したため、今回の取下げという措置をお願いした次第です。

 今回のトートバックの企画では、まずは私の方で、ビーチやトラベルという方向性で夏を連想させる複数のコンセプトを打ちたてました。次に、そのコンセプトに従って各デザイナーにデザインや素材を作成してもらい、 私の指示に基づいてラフデザインを含めて、約60個のデザインを レイアウトする作業を行ってもらいました。その一連の過程において スタッフの者から特に報告がなかったこともあり、私としては渡されたデザインが 第三者のデザインをトレースしていたものとは想像すらしていませんでした。しかし、その後ご指摘を受け、社内で改めて事実関係を調査した結果、デザインの一部に関して第三者のデザインをトレースしていたことが判明いたしました。

 第三者のデザインを利用した点については、現在、著作権法に精通した弁護士の法的見解を確認しているところですが、そもそも法的問題以前に、第三者のものと思われるデザインをトレースし、そのまま使用するということ自体が、デザイナーとして決してあってはならないことです。 また、使用に関して許諾の得られた第三者のデザインであったとしても、トレースして使用するということは、私のデザイナーとしてのポリシーに反するものです。

 何ら言い訳にはなりませんが、今回の事態は、社内での連絡体制が上手く機能しておらず、私自身のプロとしての甘さ、そしてスタッフ教育が不十分だったことに起因するものと認識しております。当然のことながら、代表である私自身としても然るべき責任は痛感しており、このような結果を招いてしまったことを厳しく受け止めております。今後は、著作権法に精通した弁護士等の専門家を交えてスタッフに対する教育を充実させると共に、再発防止策として、制作過程におけるチェック項目を書面化するなどして、同様のトラブル発生の防止に努めて参りたいと考えております。

 また、過去の作品につきましても、問題があるというインターネット上のご指摘がございますが、その制作過程において、法的・道徳的に何ら問題となる点は確認されておらず、また権利を主張される方から問い合わせを受けたという事実もございません。お取引先の方々、そして権利等を主張される方からご連絡等があった場合には、引き続き誠実に対応させていただくつもりです。

 なお、東京オリンピックパラリンピックのエンブレムについて、模倣は一切ないと断言していたことに関しましては、先日の会見のとおり何も変わりはございません。東京オリンピックパラリンピックのエンブレムはMR_DESIGNで応募したものではなく、私が個人で応募したものです。今回の案件とは制作過程を含めて全く異なるものであり、デザインを共同で制作してくれたスタッフもおりません。

 今まで携わった仕事はすべて、デザイナーとして全力を尽くして取り組んでまいりました。このような形で、応募されたお客さま、クライアントさま そして関係者の皆さまには多大なご迷惑とご心配をおかけしたことを、 大変申し訳なく思っております。 今回頂戴したご批判を忘れることなく、デザイナーとしての今後の仕事、そして作品を通じて、皆様のご期待に全力をあげて応えていく所存です。

2015年8月14日 佐野研二郎
http://www.mr-design.jp/

デザインは言葉である:東京五輪エンブレムと佐野研二郎

 2015年8月5日、東京オリンピックパラリンピックの「エンブレム」を制作した佐野研二郎(アートディレクター、多摩美術大学教授)と組織委員会マーケティング担当)による記者会見が行われた。2015年7月24日に発表してから約一週間後にベルギーのデザイナーが制作した劇場「Theatre de Liege」のロゴマークと「酷似」していることが話題になったからである。

・五輪エンブレム問題 制作者の佐野研二郎氏が会見

 既に述べたように(http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/20150730)、今回の事態は視覚的な類似点への気付きがインターネット上で拡散・連鎖したものであり、これに対して選考関係者やデザイン関係者がそれぞれの見解を述べていくという形をとっている。またこのように模倣を疑われたデザインに対して説明責任を果たしていくことは、東京オリンピック1964のロゴマークやポスターを制作した亀倉雄策の時代(1950年代〜1960年代)から繰り返されていたことでもある。歴史的いえば、亀倉だって模倣をしていた。それを認めて詫びることもあれば、反論として説明責任を果たすこともあった。だからこそ、亀倉は今でも評価されているのだ。

 本稿では、視覚的類似点への気付きが「模倣」と問題視されたことに対し、今回の記者会見では「デザインをどのように見ればよいのか」という説明が丁寧になされたという点に注目したい。というのも、こうしたやりとりは「デザインは言葉である」という社会的な事実をを再確認させてくれるからであり、また「私たちは何かしらの概念を用いることで、「見る」という行為をその都度達成している」ということも教えてくれるからである。

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 先に事実関係を確認しておくと、組織委員会によれば、リエージュ劇場のロゴは商標登録されていないので商標上の問題には当たらないとしている。また「盗用」ではないかという疑問に対しては、佐野氏から「先方のロゴマークは見たことがない、デザインの参考にしたことはない」との説明を受け、エンブレムの独自性を認めている。さらに、組織委員会は依頼時に「オリンピックとパラリンピックの関連性を持たせること」と「デジタルメディアでの展開も想定したデザインの拡張性を満たすこと」の二点をお願いしていたという。

 こうした前置きを踏まえ、まず佐野は盗用が「事実無根」であるとした上で、「この場で私がご説明することは、作成したエンブレムのデザインに込めた想いと具体的なデザインのディティールに関すること」と始める。そして「今回のオリンピック・パラリンピックのエンブレムは、アートディレクター、デザイナーとしてのこれまでの知識や経験を集大成して考案し仕上げた、私のキャリアの集大成ともいえる作品」であり、「力を出し切って、真にオリジナルなものができたからこそ、自信を持って世の中に送り出すようなものになった」とデザインの独自性を主張している。

 それでは、その独自性とはどのようなものか。どこをどのように見れば、そのデザインを理解することができるのか。そこで佐野はエンブレムの各パーツ及びそれらの配置をどのように見るべきかを説明する。

「まずエンブレムを制作する時に、一つの強い核を見つけたいと思いまして、いろんな方向性を試しました。その中の一つとして、TOKYOの「T」であるこのアルファベットの「T」に注目しました。いくつか欧文書体はあると思うのですけれども、そのなかでDibot(ディド)という書体とBodoni(ボドニ)という書体があり、これは広く世界に使われている書体です。それを見た時に、非常に力強さと繊細さとかしなやかさとかが、両立している書体だなと思いまして、このニュアンスを活かすことができないかというところから発想が始まりました」

 ここでは、エンブレムのデザインをアルファベットの「T」という形から見始めてほしいということが確認されている。そして複数の書体が存在することを示し、「T」という形状もいろいろありうることを紹介した上で、他でもなくこの形状に絞り込んだ理由を「力強さと繊細さとかしなやかさとかが、両立している」点に求めている。まずは他でもなく「T」として見ること。これが佐野による最初の設定である。


「で、見て頂いてわかるように、(曲線部分を指さしながら)ここのRの部分がありまして、これは今楕円的なものが入っていると思うんですけれども、僕はこれを見て、亀倉雄策さんが1964年の東京オリンピックの時に作られた大きい日の丸というものをイメージさせるものになるんじゃないかなと思いまして、単純に「T」という書体と「円」という書体を組み合わせたようなデザインができるのではなかろうかということを思いました。そこで作ったロゴが、今回のこの東京オリンピックパラリンピックのエンブレムになります」

 次に「T」のどこをどのように見ればよいのかである。佐野は「T」の曲線部分を指さし、文字装飾の一部分に「楕円的なものが入っている」と述べている。重要なのは、このようにデザイナーが見ているものが示されることで、私たちも「この図形には楕円も含まれている」と見えるようになってくることである。そして佐野はこの楕円と「大きい日の丸」を関連付け、「T」と「円」という組み合わせが、東京オリンピックパラリンピックのエンブレムにもなりえると説明している。つまり、円形という概念を用いて「T」を見ること。これが佐野による二つ目の設定である。

「図解で示しますと、正方形を9分割しているんですね。で、9分割して、ここの真ん中の黒いラインは、オリンピックの黒いロゴと対比したような形で黒の帯をとっております。ここの赤い丸なんですけど、鼓動(引用者注:質疑応答では「赤い丸を心臓の位置に置きたい」とも説明)をちょっとイメージしたような形で左上に置かさせて頂いて、ここの円とここのオリンピックロゴの円が、同じ(引用者注:縦の)ライン上に並ぶようにデザインしていて、ここの羽根の部分(引用者注:ゴールドの部分)は、この大きい円の周りの部分を使っているものです。で、右下(引用者注:シルバーの部分)にこのものを反転してを使っているようなものとしてデザインしています」

 続いて、エンブレムにおける各パーツの配置についてである。佐野はエンブレムの上に線が描き重ねられたボードを示して、「正方形を9分割している」と述べている。ここでも重要なのは、このようにデザイナーが見ているものが具体的に示されることで、私たちも「この図形は9分割された正方形に収まっている」と見えるようになることである。そして佐野はこの正方形の中央部分を「黒い帯」、右上部分を「赤い丸」、ゴールドとシルバーの部分を「羽根」と呼び、それぞれのパーツが円形とそれを囲い込む正方形との関係で成り立っていると説明する。つまり、円形とそれを囲い込む正方形との関連において「T」を見ること。これが佐野のよる三つ目の設定である。

 ここまでを踏まえると、今回のエンブレムには三つの設定がある。一つ目は他でもなく「T」として見ること、二つ目は円形という概念を用いて「T」を見ること、三つ目は円形とそれを囲い込む正方形との関連において「T」を見ることである。今回の記者会見で佐野はこの三つを説明しながら「デザインの考え方が違う」と述べたのだが、どういうわけかそれでも記者から「デザインの考え方が違うというのが、素人でもわかるように説明して頂きたい、どう違うのでしょうか」と再説明を求められてしまい、以下のように答えた。

「繰り返しになってしまいますが、リエージュ劇場のほうは、シアター・リエージュで「T」と「L」で作られてますよね。それでこちらは、「T」と「円」ということをベースにしてユニットの組み合わせで作っているものですので、まずデザインに対する考え方が違うと言ったのはその意味です。そしてディティールを見て頂いても、ここの部分が接しているですとか、ここにこう大きい円が入っているですとか、下の書体も同じなのではないかこととベルギーのデザイナーの方は申しているようなんですけれども、これは全く違う書体です。なので、表層的に見ても、実際のデザインの考え方としても全く違うと僕は思います」

 ここではリエージュ劇場のロゴと今回のエンブレムの区別がなされている。つまり、リエージュ劇場のロゴは「T」と「L」の組み合わせだとした上で、今回のエンブレムは「T」と「円」の組み合わせだと述べている。このようにして佐野は「表層」をどのように見ればよいのかを説明し、またその区別を支えるのが先に述べた三つの設定であると具体的に示し、「実際のデザインの考え方としても全く違う」と述べているのである。

 重要なのは、このようにデザイナーが見ているものが具体的に示されることで、私たちもリエージュ劇場のロゴと東京オリンピックパラリンピックのエンブレムが「異なる」と見えるようになることである。そしてこのように説明されれば、デザイナーではない私たちでもデザイナーが見ているように見えてくるのである。デザイナーによる説明を聞いて、デザインを「理解」するとはきっとこのような経験なのであろう。

 とはいえ、説明に不十分な点もある。例えば、今回の説明は組織委員会が既に発表している「すべての色が集まることで生まれる黒は、ダイバーシティを。すべてを包む大きな円は、ひとつになったインクルーシブな世界を。そしてその原動力となるひとりひとりの赤いハートの鼓動」(https://tokyo2020.jp/jp/emblem/)という文面に対応していたとは言えない。むしろ、今回の記者会見は佐野自身におけるデザインの見方を説明したに過ぎない。

 また佐野によれば、リエージュ劇場のロゴは「T」と「L」の組み合わせである。しかし、実際のところは黒い丸も使用されており、その中に白抜きで「T」と「L」が描かれている。したがって、東京オリンピックパラリンピックのエンブレムは「T」と「円」の組み合わせであるという説明が決定的であるとは言い切れないところもある。

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 今回の問題は視覚的な類似点への気付きが「模倣ではないか?」と話題になって始まったものである。そして、デザイナーによる記者会見では「T」を円形や正方形と関連付けて見てもらうための説明が尽くされることになった。「模倣」という理解から「それなりに設計されたデザイン」へと理解を書き換えていくための具体的な手順が、今回の記者会見で示されたのである。

 振り返ってみれば、このような「もっともらしさ」はデザインにおいてとても重要なものである。というのも、このように説明をされることで、デザイナーではない私たちはその対象をどのように見ればよいのかを定めることができるからである。専門家でなくても「見てわかる」とはこのような経験のことであり、またこうした経験を通じて私たちはデザインをわかったことにしているのであろう。

 要するに、デザインの何を見て何を見ないのかは、私たち自身の説明の仕方と不可分な関係にある。また「見る」ということは概念の利用と深く結びついてもいる。驚くべきことに、私たちはどの概念を用いるのかによって、見えている対象をどのように理解するのかも変わってしまうのである(前田泰樹+水川喜文+岡田光弘(編)『エスノメソドロジー新曜社、2007年、pp.210-216)。その意味において、今回は私たちがいかなる概念を用いて「T」を見るのかという視覚的なせめぎあいが生じていたのであろう。

 なお、このように「もっともらしさ」を競うことはそんなにおかしなことではない。というよりも、そもそも決定的かつ必然的なデザインは存在しないので、なぜ他でもなくそのデザインなのかを説明し続けなくはならない。その意味で、デザインはどうしようもなく言葉と不可分であり、何度でもどのようにでも語り直されていくのである(加島卓『〈広告制作者〉の歴史社会学:近代日本における個人と組織をめぐる揺らぎ』せりか書房、2014年)。

 今回の騒動は、デザインにこうしたややこしさがあることを私たちに再確認させてくれた。デザインは言葉であり、私たちは何かしらの概念を用いることで、「見る」という行為をその都度達成しているのである。こうした面倒臭さと経験の可変性を引き受けながら面白がることが、現在の私たちには求められているように思う。(2015.8.5)

エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)

エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)

グラフィックデザインと模倣の歴史的な関係:亀倉雄策と佐野研二郎

 2015年7月24日に2020年開催予定の東京オリンピックパラリンピックの「エンブレム」が発表され、その約一週間後にベルギーのデザイナーが制作した劇場「Theatre de Liege」のロゴマークと「酷似」していることが話題となった。前者を制作したのはは佐野研二郎(アートディレクター、多摩美術大学教授)、後者を制作したのはオリビエ・ドビ(Studio Debie)である。

 経緯としては、「友人から電子メールで知らせがあり驚いた。類似点が多くある」とオリビエが認識し、Facebookに記事を投稿してから拡散的に知られるようになった(https://www.facebook.com/StudioDebie/photos/a.306570046078725.70557.306563286079401/883470945055296/?type=1)。また、スペインのデザイン事務所が東日本大震災の復興支援のために制作したものと「配色が同じ」という指摘も登場し(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150730/k10010171901000.html)、インターネット上では批判的な議論が繰り広げられている。

 こうした動きに対し、東京オリンピックパラリンピック組織委員会は「各国の商標をクリアしており、問題になるとは考えていない」という見解を示し、IOC(国際オリンピック委員会)のマーク・アダムス広報部長は「ロゴのデザインで同じことはしばしば起きる。リオデジャネイロオリンピックロゴマークも、多くの人が『ほかのロゴとデザインが似ている』と言っていた」と話している(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150730/k10010171901000.html)。

 また佐野と同じくコンペティションに参加した森本千絵(アートディレクター)は「私もやりきったし気持ちよい。佐野さんのエンブレムは代表して選ばれたわけで誇りに思うし応援したい」と述べており(https://twitter.com/morimotochie/status/624964454321537024)、佐野の同僚でもある中村勇吾ウェブデザイナー多摩美術大学教授)は「今回のエンブレムのオリジナリティについてはこの映像の後半によく表現されている。あるひとつのシンボルに集約されるのではなく、多様に発散していく形態のシステム」とも述べている(https://twitter.com/yugop/status/626601871835164672)。

 さらに、グラフィックデザインの業界誌『アイデア』の編集長でもある室賀清徳は「個人の感想」と前提して、「元ネタとされる劇場のは頭文字の「T」と「L」をモダン・ステンシル書体風味で一体化させてるのがポイントで、東京五輪はあくまで幾何的図形の構成をベースにTとOとIとLを表現するマークを作ったということだと思う」(https://twitter.com/kiyonori_muroga/status/626385596391370753)と書き込んでいる。

 このように、今回の事態は視覚的な類似点への気付きがインターネット上で拡散・連鎖したものであり、これに対して選考関係者やデザイン関係者がそれぞれの見解を述べていくという形をとっている。また内容としては、模倣を問題視する意見に対して、選ばれたデザインをどのように見ればよいのかと解説する意見が投げ返されている。本稿はこのようにインターネットで元ネタ探しと告発が行われてしまう独特の厳しさをとても興味深いと思うと同時に、このようにしてグラフィックデザインに対する模倣を指摘することは今になって始まったことではなく、それこそ1964年の東京オリンピックロゴマークをデザインした亀倉雄策にまで遡ることのできる出来事だということを紹介したい。

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 2015年7月24日の記者会見において、佐野は今回のデザインが1964年の東京オリンピックロゴマークをデザインした「亀倉雄策の影響」を受けていると話している(http://www.japandesign.ne.jp/editors/150729-tokyoolympic/)。また先に挙げた中村勇吾によれば、佐野のデザインは「1964年の亀倉雄策による究極のシンボルに対する明確な回答にもなっている」という(https://twitter.com/yugop/status/626601871835164672)。このように今回のデザインは、本人やその同業者も認めるほど亀倉雄策との関連を語らずにはいられないものになっている。

 それでは、亀倉雄策(1915-1997)とは一体何者なのか。一般的に広く読まれた書籍によると、様々な国家的イベントや大企業のポスターやシンボルマークを手掛けてきた亀倉は「日本のデザイン界を背負って立つ男」(野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』小学館、2011年、p.10)だと言われる。またデザイン史的な記述においても、「世界が認めたジャパンデザインの象徴」(『亀倉雄策のデザイン』美術出版社、1983年/2005年、帯文)と書かれるように、日本を代表するグラフィックデザイナーの一人として理解されている。

 ここで注目したいのは、その亀倉も模倣に手を染めていたことであり、また模倣の指摘を他者から受けてもいたことである。例えば、1951年の広告業界誌『広告と広告人』には以下のような記事が掲載されている。

「近頃、廣告界の話題として模倣とか盗用とか余り香しくなく話が專らである。今更事新しくとり立てて言うのが可笑しい位である。次に最近問題になったのは亀倉雄策氏の「包装」の表紙図案である。美術批評家植村鷹千代氏が辛辣な筆彈を朝日の文化欄にぶっ放した。スイス・グラフィース所載RIRIのチャックの廣告「河馬」の絵を盗用したというのである。模倣と創作の限界はまるで鶏と卵のように難しく、模倣と盗用も時に於てデリケートな問題にぶつかる。模倣とは善意の盗用か、盗用は文字どおり悪意の模倣か…全くややこしい。…(中略)…。ベテラン亀倉、彼が有名人だけに風当たりは彼がまともに食ったのである。成程、盗用と言われれば盗用であろう。そうなれば叩けば濛々たるホコリはあながち廣告作家の世界だけに限らぬことは知れきっている。…(中略)…。亀倉氏は「正しい批評だよ」と言っているだけに男らしい。」(狛江孝平「廣告時評」『広告と広告人』(第3号)丹青社、1951年) 。

 そして、この件については数年後に亀倉自身が以下のように認めている。

「実は私は今から8年か9年前、日宣美ができる以前、日本ではまだデザインというものが社会的に認められないころ「盗用作家」として1度朝日新聞で非常に大きくたたかれた人間で、…(中略)…。そのころ2千部か3千部ようやく出していたような雑誌に私は表紙をかいたのです。ちょうどスイスから初めて薄っぺらな雑誌が届いて、それにカバの絵があった、これがいけなかったのです。アイデアに困って苦心していたのですが、実は私もそのころは今みたいではなくもっとずっとやせておりまして、とにかく何とかしなければならない、カバを書きたい、そう思ったのですが、そのカバを写生するだけの気力もないわけです。また動物園にもカバはいなかった。何かいいのはないかと思って写真を一生懸命探したが写真もない。しょうがないから書いちゃった。もちろんうまくない、へたですけれども、そのカバの首を原画と逆に左へ曲げればよかったのを右へ曲げたのがいけなかった。カバの首を左に曲げて、おしりにラジオが乗っかっていてちょっとしたものでしたがそれを何のことなしに首を右に曲げた、それがぼくの失敗です。その首をぐっと左に回せば目につかなかったかもしれない」(亀倉雄策「盗用と影響」『全日本広告技術者懇談会記録』電通、1958年)

 『朝日新聞』の記事データベースでは当該記事を発見することができないのだが、少なくとも告発した側とされた側の主張は噛み合っている。1950年代前半の日本社会においては外国雑誌の流通が限られており、それゆえにその稀少性を利用した制作がなされ、それが結果として「模倣」や「盗用」と呼ばれてしまったというわけである。

 なおこうした傾向は亀倉に限ったことではなく、グラフィックデザイナーの職能団体である日本宣伝美術会でも問題になっていた。例えば、「模倣の罪 いまだに多い。有名作家でもやっている。モチーフだけいたゞいたのはまだいゝが、中にはトレーシングペーパーでしき写したようなのがある」(やなせたかし「デザイナー七つの大罪」『JAAC』(No.2)日本宣伝美術会、1954年)というように、西洋社会の模倣を疑われる日本のグラフィックデザインという問題は1950年代から生じていたものである。

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 このように、1950年代におけるグラフィックデザインの模倣は同業者や批評家によって告発されるものだった。しかし、1960年代になると一般人からも模倣が指摘されるようになり、その矛先が亀倉雄策に向けられたりもした。例えば、1960年の雑誌『デザイン』の読者投稿欄「デザインの広場」に次のような投書が掲載されている。

「近着のSwiss Watch and Jewelry Journal誌に掲載されている、スイスの時計メーカーAudemars Piguet社の広告の一部と貴誌『デザイン』3月号の表紙とは、全く同一と思われます。デザインにおける創造ということの大切なことを強調され、模倣を徹底して攻撃されている同亀倉氏の日頃の発言に共感をもつものとして、もし『デザイン』誌3月号の表紙が単に外国雑誌からぬきとったものだとすれば亀倉氏の対社会的な発言とも矛盾したはなはだ残念なことと思います。氏の誠意ある説明がほしいと思います」(小林松雄「グラフィックデザインの模倣について」『デザイン』美術出版社、1960年11月号)。

 そして、この件について亀倉は以下のように応答している。

「これは模倣でも盗用でもありません。最初から中世期の銅版画を利用することを目的に作ったものです。スイスの時計の広告も、やはり中世期の銅版からとったものです。この中世の技術図版は著名なもので、この復刻版が、最近アメリカから上巻、下巻の大冊で刊行されています。ですから、このスイスの時計の広告の銅版画は現代作ったものではありません。デザイナーがこの古い技術の本から複写して、それに品名をレイアウトしたものです。…(中略)…。あなたが強調されているスイスの時計の広告も私と同じように中世の銅版画を利用したものです。しかもデザイナーは、それを料理しないで、そのままナマに利用したわけです。…(中略)…。こういう銅版画は、技術者や科学者が、写真のない時代に描いたもので、従って無性格のものです。博物の鳥や蝶の絵と同じもので、作者があるというものではないのです。そのような無性格なものに、デザイナーが性格を与え表情を与えることも、ひとつの仕事であると思います。以上あなたの質問に答えたつもりですが、いかがでしょうか。あなたがもし、それでも私をおせめになるならば、スイスの時計会社のこのデザイナーも私同様せめられねばならない筈です」(亀倉雄策亀倉雄策氏の返事」『デザイン』美術出版社、1960年11月号)

 重要なのは、模倣を指摘された亀倉の対応が先の事例とは異なることの意味である。先の事例においては、同業者に模倣が蔓延るなかで自分もやってしまったことを認めている。しかし、この事例においては模倣や盗用でないと否定している。こうした対応の違いが生じるのは、後者の事例においては「全く同一と思われます」というように、視覚的な同一性だけが根拠にされているからである。つまり同業者や批評家であれば共有していてもおかしくない専門的知識が参照されないまま、結果としての制作物だけが問題にされている。だからこそ、亀倉はわざわざどのようにして制作したのかを丁寧に語らされてしまっているのだ。

 なお、こうした傾向も亀倉に限ったことではない。大阪万国博のマークがアメリカのデザイン書にのっている模様の一部と似ているといった指摘(『朝日新聞』1966年9月29日)や、札幌オリンピックのマークの構成要素の一つ〈初雪〉の紋が盗用ではないのか(『朝日新聞』1966年10月10日)といった指摘が相次ぎ、「このような問題が一つ起こると連鎖反応を示すようである。これは何も急に盗作が多くなるわけではなく、一般の好奇心がそこに集中されるため、少しでも似ているものを見つけると投書などの方法でどんどん摘発される」(永井一正「デザインの創造と盗作」『朝日新聞』1967年9月13日)とまで語られていた。1960年代にグラフィックデザインを見ることは、それと似ているものを探すことと結びつきやすくなっていたのである。

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 このような動きは、デザイン雑誌の読者が制作物という仕上がりだけを見て、デザインについて語ることがそれなりに可能になってきたということを意味している。1950年代のグラフィックデザイナーにおいては学習対象だった専門的知識が、1960年代の人びとには模倣にしか見えなくなってきたのである。それでは、どうしてこんなことになったのか。

 一つには、1960年代になってグラフィックデザイナーを目指す若者が急増したことが挙げられる。グラフィックデザイナーの登竜門と呼ばれた日本宣伝美術会へのエントリー数は1957年から1962年にかけて二倍になっている。また美術系教育機関への志願者も急上昇し、「戦前、美術学校を受験するような学生は、大体、自己の天分についての自覚をもっていたが、戦後はそうした学生は少なくなった。文科系や理科系の学校を受験するのと同じ気持ちでやってくるのもいる。絵画に興味を持ったこともないという勇敢な学生さえあらわれる。…(中略)…。そのためか、基礎の勉強をいやがる風潮があり、デッサンには手を触れず、初めから絵の具で描きたがる」(「デザイン科は花ざかり」『朝日新聞』1961年2月22日夕刊)とまで語られるようになっていた。要するに、グラフィックデザイナーを目指す学生が増えたことで専門的知識を丁寧に教えて育てるという「やり方」が難しくなってきたのである。

 二つには、1960年代になって「モダンデザイン」という専門的知識が深く信じられなくなったことが挙げられる。というのも、先にも挙げた日本宣伝美術会においては1960年代半ばまでに「グラフィックデザインの機能性、その表現の技術という2つの要素が、ほぼ1つの到達点に達した」(中原佑介「第13回日宣美展を見て」『調査と技術』電通、1963年10月)という見え方が生まれていたからである。1951年に始まった日本宣伝美術会は、「バウハウス的なデザインの流れをくんで、合理的、機能的な視覚像の追求ということが、グラフィックデザインを独自なものにするための第一の手がかり」と考え、「日本のグラフィックデザイン分野の確立は、亀倉氏ら構成主義によって達成された」と言えるまでになったのだが(浜村順「日本のグラフィックデザイン」『調査と技術』電通、1960年3月)、その分だけ、丸・三角・四角といった抽象的な図形の組み合わせでしかないモダンデザインの表現が出尽くしたかのようにも見えてきたのである。1960年代半ばに日本宣伝美術会のあり方を批判した横尾忠則らが「イラストレーター」を名乗り、モダンデザインに回収されることのない制作物を発表するようになったのは、こうした動きの結果でもある。

 つまり、グラフィックデザイナーを目指す若年層が増え、かつモダンデザインという専門的知識が信じられにくくなったことにより、1950年代と1960年代とではグラフィックデザインに対する理解の仕方に違いが生じやすくなっていた。そしてこのような社会的背景があったからこそ、デザイン雑誌の読者が制作物の視覚的類似性だけを見て、デザインについて語ることがそれなりに可能になっていたと考えられそうである。

 あえて言えば、「素人」が社会的に増えたことにより専門的知識が部分化され、「何を達成しているのか」を評価することよりも、「失敗探し」の次元で面白がるほうが、グラフィックデザインに関わる「みんな」を成立させやすくなったのである。こうしてグラフィックデザインに関わる人が増えたことで、グラフィックデザインに対する理解の仕方が変わり、またその変化がさらに関わろうとする人びとに利用されることで、何をどこまでグラフィックデザインと理解するのかが書き換えられていくのである。

 ここまでを踏まえれば、今回の騒動はデザイン史が好んで取り上げる亀倉雄策の制作物に学べというよりも、亀倉が向き合ってきた人びとにおけるデザインの理解の仕方において学ぶことがあるように思う(加島卓『〈広告制作者〉の歴史社会学:近代日本における個人と組織をめぐる揺らぎ』せりか書房、2014年)。歴史的に言えば、亀倉だって模倣をしていた。それを認めて詫びることもあれば、反論として説明責任を果たすこともあった。だからこそ、亀倉は今でも評価されているのだ。

 人びとのリテラシーが上昇すれば、批判の声が増えることも避けられない。そういう「豊かな社会」において、デザインを制作する側には亀倉が果たそうとして苦労した説明責任が求められ、批判する側には相手の立場にもなってよりまともな意見を届けていくことが求められよう。絶対に批判されないデザインはありえない社会において、それでもそれなりに説明を尽くそうとするデザインとそうした根拠付けにそれなりに耳を澄ますことが、現在の人びとには求められているように思う。(2015年7月30日)

KoSAC「日本におけるソーシャリー・エンゲイジド・アートの行方」

第13回KoSAC「日本におけるソーシャリー・エンゲイジド・アートの行方」

 今年度2回目のKoSAC(Kokubunji Society for Arts and Culture、通称コサック)のお知らせです。今回は、ロンドン芸術大学トランスナショナル・アート研究所(以降TrAIN)博士研究員の山本浩貴さんをお招きし、「トリックスターとしてのアーティスト」というタイトルでご発表を頂きます。

 山本浩貴さんは、一橋大学で宗教社会学を学ばれたのち渡英され、ロンドン芸術大学チェルシー・カレッジ・オブ・アーツを経て、現在TrAINでご自身のアーティスト、研究者両方の視点を生かしながら、社会とアートの関係性について研究を進められています。また2015年5月より、京都芸術センターのアーティスト・イン・レジデンスプログラムで京都に滞在されており、今回のKoSACでは、京都でのレジデンスプログラムを通して得た知見を反映させながら、日本におけるソーシャリー・エンゲイジド・アートの可能性と課題についてお話し頂く予定です。

 日本でも、今年に入ってから3月にパブロ・エルゲラの『ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門』(フィルムアート社)が出版されたほか、研究者とアーティストの垣根を越えて「社会の芸術フォーラム」が5月に設立されるなど、「社会」と「アート」の関係性について再考しようという気運が高まっています。一方で、アートにおける「社会的なもの(the social)」、もしくは「社会的に関わること(socially engaged)」とは一体何を意味するのかについては、その議論は緒についたばかりです。そこで、日英の現状にも詳しい山本さんの研究成果をベースにしながら、会場の皆さんと自由に議論をする機会になればと考えています。

 当日までに、以下の山本さんの著作・プロジェクトのサイトをご覧戴くことをお勧めします。
1.Watarase Art Projectでのインスタレーション
「山本浩貴 『書かれなかった歴史に光を当てる』」 
http://watarase-art-project.tumblr.com/
2.展覧会「他者の表象あるいは表象の他者」(京都芸術センター、会期:2015年6月20日〜7月5日)
http://www.kac.or.jp/events/16109/
3.図書新聞:「レイシズムに抗するアート――1980年代イギリスにおける「ブラック・アーツ・ムーブメント」から反人種差別運動におけるアートの役割について考える」
http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3204&syosekino=8257
4.図書新聞「英国のブラック・アートにおける反レイシズム戦略の多様性――クローデット・ジョンソンとリネッテ・イアドム=ボアキエの作品を例に考える」
http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3204&syosekino=8307

■日時:2015年7月13日(月) 18:30〜20:30
■場所:東京経済大学 第4研究センター4階4422研究集会室
    国分寺キャンパス正門を入って直進。突き当たり右側にある図書館の4階です。入口は図書館とは別ですので、図書館を正面にして「第四研究センター」と書かれている入口からエレベーターで4階に上がって下さい。上がると正面に地図がありますので、4422研究集会室の位置をご確認下さい。構内の地図は以下のURLをご参照下さい。(http://www.tku.ac.jp/campus/institution/kokubunji/
■話題提供者:山本浩貴(ロンドン芸術大学博士課程、TrAIN博士研究員)
■討論者:狩野愛(東京藝術大学大学院博士課程)、光岡寿郎(東京経済大学
■司会:加島卓(武蔵野美術大学ほか)
■参加方法:(1)お名前、(2)ご所属、(3)自己紹介を140字程度でjoinkosac(at)gmail.com(atを@マークに変えて下さい)までお送り下さい。当日参加も歓迎いたします。
■問い合わせ
e-mail: joinkosac(at)gmail.com(atを@マークに変えて下さい)
■URL
http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/
http://toshiromitsuoka.com/

「町田×本屋×大学」、始めます。

「町田×本屋×大学」
第1回「時間消費型の新刊書店」のお知らせ

 2015年5月より、「町田×本屋×大学」というイベントを始めます。これは町田マルイ6階のブックカフェ「solid & liquid MACHIDA」にて、町田近辺の大学をネットワークしながら地域住民や通勤買物客、大学生や高校生を対象にトークショーやブックフェアなどを開催するイベントです。都心ではなく「町田」で、インターネットではなく「本屋」で、小田急線や横浜線沿いの「大学」を横断しながら、出版文化を応援するのが目的です。
 第1回は「時間消費型の新刊書店」がテーマです。ここ数年で「個性派新刊書店」が注目されるようになりました。昔ながらの街の本屋や駅前書店とは異なり、ブックカフェなどが併設され、特徴のある本棚をゆっくり楽しむような店舗が増えています。今回はこのような「時間消費型の新刊書店」に焦点を絞り、TSUTAYAhttp://www.tsutaya-ltd.co.jp/)、オリオン書房http://www.orionshobo.com/)、solid & liquid MACHIDAの三店からゲストをお招きして、現状認識や課題、そしてこれからの新刊書店と街の関係についてのお話を伺います。
 聞き手は、メディア論や社会学が専門の加島卓(東海大学http://d.hatena.ne.jp/oxyfunk/about)とドイツ現代史やヨーロッパ文化論が専門で『ニセドイツ』シリーズ(社会評論社伸井太一名義)でも知られる柳原伸洋(東海大学http://researchmap.jp/noby/)です。年齢や職業を問わず、書店に関心のある多くの方々にいらしてもらえると幸いです。

第1回 時間消費型の新刊書店
■日時:5月22日(金)19時〜21時
■場所:solid & liquid MACHIDA カフェスペース(町田マルイ6階、小田急町田駅徒歩2分、JR横浜線町田駅徒歩1分)
https://www.facebook.com/pages/Solidliquid-%E3%82%BD%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%89/667876799974426
■料金:800円(ワンドリンク付)
■ゲスト
・(株)TSUTAYA/BOOK部・安本朋幸
・万田商事㈱/専務・高田鉄(オリオン書房
リーディングスタイル㈱/代表取締役・今出智之
■聞き手:加島卓(東海大学)+柳原伸洋(東海大学
■参加方法:メールまたはsolid & liquid MACHIDA 店頭でご予約ください。メールの場合は(1)お名前、(2)お電話番号、(3)「5月22日の「町田×本屋×大学」に参加希望」とお書きの上、kitada@readingstyle.co.jpまでお送り下さい。頂いた個人情報はこのイベント以外には使いません。また先着での受付になります。定員(30名)になり次第、締め切らせて頂きます。
■お問い合わせ:042-785-4951(solid & liquid MACHIDA)
■URL:http://machidahonyadaigaku.hatenablog.com/

 なお、6月20日(土)19時からは、小規模の個性派書店(三店舗)に注目した「新しい本屋の形を考える」というセッションを予定しております。こちらにつきましては、改めてお知らせします。
 以下は、企画の背景とねらいについてです。

 「町田×本屋×大学」を企画した背景としては、「本屋の街」「変わる書店の在り方」「大学の交差点」の三つがあります。
 まず、町田は「本屋の街」です。しかし、2013年以降に大型書店(リブロ、あおい書店、福家書店ほか)が撤退してからは、町田で入手可能な書籍の種類が限られてしまいました。そうしたなか、2014年6月にブックカフェ形式の書店(solid & liquid MACHIDA)が町田マルイ6階にオープンし、本にまつわる「場」や「商品」にも目を配った個性的な店舗を展開しています。そこでこのような機会を活かし、地域の住民や周辺の大学と緩やかに連携しながら程良い読書空間を作り出していくことはできないだろうかと考えました。
 次に「変わる書店の在り方」です。オンライン書店が急成長する一方で、オフライン書店の在り方が再編成されつつあります。都心の大型書店では、併設カフェなどでトークショーなどのイベントを開催し、店舗へのリピーターを増やそうとしています。また、下北沢のB&Bや京都の恵文社一乗寺店のように地域性を活かしたイベントを開催し、個性的な書店作りに努めているような事例も出てきました。こうした傾向を踏まえつつ、都心ではなく「町田」であることを看板にして、町田という場所だからこそ可能なトークショーやブックフェアを開催できないだろうかと考えました。
 最後に「大学の交差点」です。町田を中心に見ると、小田急線と横浜線沿線にはかなりの数の大学があり、またそうした大学を目指す高校生たちもいます。言い方を変えれば、様々な本の書き手が町田周辺で働いており、またそうした書き手の下で学ぶ可能性の高い高校生がいます。こうした地理的な条件を踏まえれば、大学の交差点である町田をハブにして、書き手を緩やかにネットワークしつつ、読み手と出会う機会を作れるのではないかと考えました。
 以上を踏まえ、2015年5月より「町田×本屋×大学」というイベントを始めます。これは町田マルイ6階のブックカフェ「solid & liquid MACHIDA」にて、町田近辺の大学をネットワークしながら地域住民や通勤買物客、大学生や高校生を対象にトークショーやブックフェアなどを開催するイベントです。都心ではなく「町田」で、インターネットではなく「本屋」で、小田急線や横浜線沿いの「大学」を横断しながら、出版文化を応援するのが目的です。
 「町田×本屋×大学」では沿線の教育施設と緩やかに連携しながら運営していくことを考えております。企画案などがありましたら、ご相談下さい。

2015年4月30日
文責:加島 卓(東海大学文学部広報メディア学科准教授)
machidahonyadaigaku@gmail.com