*[critique]責任と自由、進化と歴史

 web2.0関連の記事や書籍では、「グーグルでヒットしなければ世の中に存在しないのと同じだ」とか「多くのページで紹介されるページはよいページ」という主張がよく見られる。こうした「集団の知恵」的主張にはそれなりのリアリティがある。またある種の市場決定論として理解できてしまうところもある。しかし、どうにも違和感を覚えずにはいられない。とはいえ「マーケティングの言葉だから」と一蹴せずに、ちょっと考えてみたい。
 
 たとえば、誰がその知恵に対する「責任」を引き受けるのであろうか。知の生産・流通を促進することと、知の解釈・運用を見極めることは別である。検索結果に相当する知恵を生み出すことだけが専門家の仕事ではない。専門家は自らの仕事に責任を持つからこそ専門家なのである。web2.0的な集合知の語りはこの差異を無視している。さらにいえば多くの専門家は個人ではなく、その専門性を自己反省する集団として成立している。
 
 web2.0的な集合知の語りは、専門家による知の独占をしばしば批判する。しかしこれは個人としての専門家を想定しているように思えるだけでなく、知に対する責任の引き受け方を明確にしていないという意味において、アンフェアな批判である。これらの批判は、自分の主張のために専門家の一面を(しかも外在的に)都合よく捉えているだけではないか。そういうわけで、以下のような主張には、その聞こえの良さとは別に違和感を覚えてしまう。

「正しい状況の下では、集団はきわめて優れた知力を発揮するし、それは往々にして集団の中でいちばん優秀な個人の知力よりも優れている。すぐれた集団であるためには特別に優秀な個人がリーダーである必要はない。集団のメンバーの大半があまりものを知らなくても合理的でなくても、集団として賢い判断を下せる」。「…制約がどんなに多くても、一つひとつの不完全な判断が正しい方向に積み重ねられると、集団として優れた知力が発揮されることも多い」(ジェームズ・スロウィッキー著/小高尚子訳『「みんなの意見」は案外正しい角川書店、2006年、pp.9-10)。

 
 個人/集団であれ、専門家/非専門家であれ、発言の「責任」を引き受けることは、発言の「自由」を保証する条件であるはずだ。昨年の夏にも似たようなことを書いたが、わたしたちが誰かの話に耳を済ますのは、その誰か以外に当該の話の経緯や理由を説明することができないからである。無責任な発言が無視されるのは、自由な発言に対する応答の義務を怠っているからである。
 
 ついでにもう一つ。インターネットを「進化」として語ることによって、何が見えて何が見えにくくなっているのか。ここでの進化とは、おおよそ情報技術における「ヴァージョン・アップの思想」のようなものである。かつては存在したページであるにもかかわらず、現在ではリンクが外れてしまっているという理由から、もしくはサーバーから削除されたという理由から、検索結果として表示されなくなってしまうという事実に、どれだけ妥当な理由があるのだろうか。データのヴァージョンや検索結果が更新されていくことは勿論必要だが、それが歴史性の忘却となってはならない。

「みんなの意見」は案外正しい

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ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

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