執筆を終えて、雑感。

oxyfunk2006-02-04

 無事に口頭試問を終了。修士論文としての『<広告制作者>の歴史社会学:20世紀日本の商業デザイン思想と感性・センス』はここで一旦区切り、今後は『<広告制作者>の歴史社会学 II』として研究を進めていくことに(笑)。みなさま、今後ともよろしくどうかお願いします。
 
 もう昔のことだけど、18歳の僕はなぜ「大学」なのかもよくわからないままに受験をして、その結果をどう受け止めて良いのかがわからなかった。文芸書よりもエレキギターが好きだった僕にとって、「大学生」という響きは殆ど「ギャグ」だったし、「学問」を信じる動機も実力もなかった。「大学を卒業する頃にはきっと…」という根拠なき景気回復説が、まだ信じられていた頃のことである。
 
 それから12年経って執筆したのが、今回の「卒論」なき修士論文である(法学部出身者には「卒論」がない)。ここまでの道のりが長かったのか短かったのかはわからない。しかし、18歳から25歳くらいまで強烈に持っていた「学問」への距離感なくして、現在の僕の「学問」への関心は生まれなかったと思う。今回の論文は、「学問」をシカトして気ままに現代社会を生きることがどうして可能になってしまうのかという、極めて個人史的な関心に基づいて書かれている。
 
 そんな僕にとって「感性」や「センス」という言葉は、極めて魅力的な研究対象だった。これを語ることで肯定される“不マジメさ”こそ、“マジメ”に取り組むべき課題ではないかと考えたからである。しかし、<広告制作者>が根本的に不マジメだということを言いたかったのではない。不マジメを「戦略」とする「生き方」の論理とはいかなるものなのか、それを<広告制作者>において明らかにしたかったのである。今回の成果は基本的に公開・発表していく予定であり、指摘には耳を済まし、語り直しが可能な「歴史−物語」として調整していくべきだと考えている。
 
 また大学院での収穫は「研究仲間」に尽きる。「あなたの問題意識は何ですか?」と真顔で尋ね合うコミュニティは、数百万円の年収を何年間も犠牲にしてでも得るべきものであったと信じている。こういう仲間は大学院以外で見つけることはほぼ困難ではないか。多くの大学院が「資格化」しつつあるなかで、経済的産業的効果に焦点を絞った分かり易い意味での「実学」からは距離をおいた、また別の「実学」としてのメディア論や社会学を選択したことを僕は後悔していない。
 
 今晩から、また深夜ラジオをゆっくり聞きます。当然ながら、みうらじゅん安斎肇の「GOLDEN TIME」(J-WAVE)です。また「ドラクエ8」も中古で購入、後は後輩が貸してくれる「本体」待ち…。東京メトロ表参道駅にオープンしたカフェ「エチカ表参道」(http://www.tokyometro.jp/echika/)はおフランス気分まる出しだけれども、外見よりも居心地が良く、最近のお気に入りです。