「テレビ的葛藤」の1970年代

 「テレビ史における転回点としての1970年代」という研究会に参加。充実した発表を前にして、自分がすべきことを確認した気がする。頑張ろう、うん頑張ろう。

なぜ70 年代なのか。それが日本のテレビの歴史のなかで転回点だったように思うからです。永六輔青島幸男のような有能なテレビ制作者たちが手作り感覚で面白い番組作りを実践していた60 年代の「黄金期」(小林信彦)が終わったにもかかわらず、いまだ80 年代の「スチュワーデス物語」や「オレたちひょうきん族」のような楽屋落ち的なネタで視聴者と制作者が戯れあうようなシニカルなテレビ文化も成立していないこの時代のテレビは、ある不透明なコミュニケーションのなかで作られた不思議な魅力に満ちているように思われます。テレビが自作自演的にテレビ自身を映し出すしかないメディアであることに人びとは秘かに気づきながらも、なお制作者も視聴者もシニカルにではなく作品としての完成度を求めてしまう。そのために現代のシニカルなテレビ文化が作ることが難しくなったような魅力的な内容の番組が作られていたのではないでしょうか。そのような時代のテレビ文化を考え直すことで、現代の閉塞的なテレビ文化に新たな未来を切り開くきっかけになればと思います。(日本マスコミュニケーション学会メディア史研究部会研究会・第29期第19回案内より引用)

 長谷正人さんの総論、太田省一さんの「視るものとしての歌謡曲:70年代テレビと歌番組」、難波功士さんの「テレビCFの転回点としての1970年代」、丹羽美之さんの「1970年代テレビとドキュメンタリー」、瓜生吉則さんのコメントを一通り聞き、ディスカッションでは「内と外との境界線を曖昧にするテレビの自己言及性」と「1970年代は1980年代の助走でしかないのか」などについての議論となる。個人的には太田さんのテレビ的想像力?には驚かされたが、いろいろと思うところがあって以下のような発言をした。
 
 1970年代におけるメディアの不透明さを知るキーワードは「学習」と「葛藤」なのではないか。それぞれの発表には、当時においてテレビが自己言及的な<学習の場>として発見されていく過程があったということを明らかにしようとしていたのだと思う。その場合の自己言及的な展開とは、メディア内での場合(テレビ内で完結)と、メディアを横断した場合(テレビネタを雑誌などで展開)とがある。おそらくこれは、視聴者と制作者の境界線が恣意的になったことをわかり始めた兆候であると同時にこの事態自身をどのように表現すればよいのかを悩む試行錯誤だったのではないか。このことは、テレビを「私」のことして捉えられていけるようになった1970年代という時代とも関係があると思われる。推論ではあるが、4年制大学を卒業した人口の増加、つまりそれなりに読み書き能力を獲得した中流階級の増加とも関連させて考えるべき問題であるようにも思える。
 
 それでは、1970年代に顕在化した「テレビを見る眼」が何によって支えられていたのか。この「見る眼」の社会化を「学習」と捉える場合、なにが学習を導いたのかを考えなくてはならない。そこで、「葛藤」を学習のきっかけとして想定してみる。これは学習論において言われることであり、学習が継続的にされるためには「葛藤」状況がなくてはならない。するとなると、1970年代とはいかなる「テレビ的葛藤」を産み出したのかという問いを立てることも可能になる。当然ながらこの「葛藤」とは、視聴者や制作者またその両方など様々は層において起こるものだが、「不透明なメディア性が前面化されていくこと」や「テレビの内と外の境界線が揺さぶられた」という状況は「テレビ的葛藤」として捉えることもできるだろう。そして、これへの対処として視聴者が「学習」したり「戯れた」ということも可能なのではないか。このテレビを巡る「学習」と「葛藤」の関係は、1970年代のテレビを読み解いていくキーワードの一つになり得るのではないか。
 
 改めてまとめてみるとここまで文章的に発言できたかどうかわからないけれども、とにかく「テレビ的葛藤」という言葉は面白いのではないかと思ったのです。司会の高野光平(id:konohe)さん他、若輩の戯言に耳を澄まして頂きどうもありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

社会は笑う―ボケとツッコミの人間関係 (青弓社ライブラリー)

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