書き初め、なんていう余裕はない。

oxyfunk2005-01-01

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 肝心な部分がまだまだにも関わらず、以下のような「序文」を書いてみました。これだけでは何が何だか全くわからないと思うのですが、少なくともどんなことに関心をもってどういうアプローチになりそうなのかわかるかもしれません。間違いなく後で書き直されるであろうことを前提として、且つ引用の註は省略して載せておきます。書く身体と思考する身体のさらなる維持を祈りつつ…。


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 なんかいい感じがするのだけれども、それを仲間に伝えられない。どうにもこうにもインチキ臭く思うのだが、その理由が何であるのかをうまく言えない。そんなモヤモヤした気持ちを持ったことがある人は少なくないだろう。こうした着地点の定まらない「何か」をめぐり、次のようなインタビュー記事があった。


金:結局、作品をいいと思うか悪いと思うかなんて人それぞれですもんね。
響:センスあるないって、思う人が思うことじゃないですか。たぶん誰もが自分のセンスの中で生きてるんで、そのセンスが人と合うか合わないかっていうことだけだと思うんですよね。だからセンスを磨くとか言うけど、センスって走るのが速いとか握力が強いっていうのと同じなんじゃないかって気が最近しているんですよ。肉体的なものだとわかりやすいから仕方ないと思うんだろうけど、センスにしたって努力すればなんとかなるってのとは違う。
金:思い込みが入る余地があるから面白いんですよね。握力とかだと「俺、握力強いぜ」って思い込めないけど、ミュージシャンだと「俺、最高だぜ」みたいな。
響:そう。センスとテクニックの違うところは、センスとかラックっていう部分は育たないけど、テクニックって努力すれば向上するってこと。逆にそのテクニックをいかに捨てられるかがセンスなんだと思う。…(中略)…。人がこういう美をほしがってると思ってつくるのは、すごいテクニカルなことだと思うんですよね。だから僕にはできない。たぶんすごいテクニックがいるから、人の美の尺度に合わせるのは。自分の美の尺度にいかに合わせてもらえるか。そういう風にこれがいいもんだと思い込んでもらえるかだと思うんですよね。
金:それを思い込ませるのがセンスだったりするんですよね。
※「ビトビト・ジャーナル:常磐響」『Gag Bank』vol.11(特集:クリエイターの素)、G.B.Company、2004年、pp.88-91.(「金」は聞き手の金子友衛、「響」は語り手でグラフィックデザイナーの常磐響




 「好きかも…」とか「これはちょっと…」くらいしか言葉が見つからない瞬間に私たちがモヤモヤした気持ちになるのは、常磐響がいうようなセンスとテクニックの微妙な関係として考えることもできるかもしれない。なにかしらのテクニックが目の前にあるがゆえに「何か」を感じてしまうことや、それを言い表そうとすると「センス」であるとかないとかになってしまうことは、私たちも経験があるのではないだろうか。



 こうした「センス」、また時には「感性」とも言われたりする議論に注目して、いわゆるクリエイターと呼ばれる人々と社会の関係を眺めてみると非常に興味深い。先に引用したグラフィックデザイナーにとって、センスは「努力すればなんとかなるってのとは違う」ものだった。しかしあるアートディレクターにとって、「感性は努力によって磨かなくてはならないもの」である 。さらにまたあるクリエイティブディレクターにとっては、「感性をつかさどる右脳だけに頼るのではなく、論理や理性をつかさどる左脳」を使うことも重要とされている 。それに対するかのように「決して左脳ではないよ。右脳だよ」と強調しながらも、また別の場所では「感性やセンスといったものを信用しない」と言い切ったCMプランナーもいる 。



 視点を変えて社会の側からみてみよう。ある大学のコース案内では「コンテンツを制作できる豊かな感性と確かな技術力」の必要性がデザイナー養成において強調されている 。また近年のコンテンツビジネス振興政策においては、「コンテンツビジネス、特にその制作はクリエイターの感性や想像力によるところが大き」いとされている 。さらには、ある就職ガイド本において広告制作会社の「採用の決め手はあくまでもその人の感性」であるとして、その中の広告会社の一つが「感性を磨く」ことを学生に求めているのを紹介している 。



 要するに議論が錯綜しているのである。感性は努力の対象であるのかないのか、右脳だけが感性なのかないのか、そもそも感性はあるのかないのか、等どの立場を取るにしてもクリエイターと社会の関係を考える際に「感性」や「センス」を語らざるを得ないような状況になっているのである。こうした場合、人々の語りの形態とその発生過程をつぶさに観察し、これがいかにして問題となるようなメカニズムを構成していくのかを解明することが必要であろう。錯綜の起源が何にあったのかがブラックボックスにされたまま議論を展開しても、それはさらなる議論の飛躍とアナロジーの連鎖を生み出すだけである。



 そこで注目したいのは、この錯綜する議論においてクリエイターがどのような存在として捉えられているのかである。重要なのはすべての議論において、努力をする/しない、脳にある/ない、磨く/磨かない、存在する/しない、というようにクリエイターがその身体に何かを獲得するかしないかが問題とされている点で共通しているということである。これはクリエイターが何を制作しているのかという議論に集中するのではなく、クリエイターが何を学んで自分のものにしているのかという点を議論しているという意味において非常に興味深い。したがって本研究は、先にみた変転きわまりない議論を首尾一貫して考察するために、クリエイターという制作者を社会における「学習者」として捉えてみることを試みよう。広告制作者というクリエイターにおける「学び」の歴史社会学の構想は、こうした認識からはじまる。それによって他者ではなく私たちでもありえた戦後日本社会における「学習者」としてのクリエイターに出逢い、現在における混迷した「感性」や「センス」の語られ方を相対化していくのが本研究の目指すところである。


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