CGじゃないってば!

oxyfunk2004-03-16

 飛行機(ANA)に乗った。ついつい窓の外に視線がいってしまうのだが、なぜか今回は機内放送をまじまじと。離陸前にスクリーンに映し出される「お約束」の映像を想像してみてほしい。機内に酸素が不足した場合、緊急着陸をする場合、非常口から滑り台で脱出する場合。「さぁ、これから」という時にそうした映像を観ることがどれだけドキドキを和らげてくれるのかは知らないが、「!」だったのはその解説映像の半数が実写ではなくCGだったこと。その写実的リアリティの微妙なズレは、ドキドキを解消するというよりは、新たなドキドキを生みだしてしまう。
 CGがダメだというんじゃない。実写撮影が困難な場合、CGであるがゆえに成り立つ表現は少なくないだろう。それでも「ここまでCGである必要があるの」と突っ込みたくなるものは少なくない。なぜか。それはCGを観ることによって初めて発見した実写への距離感によるものかもしれない。それまで、この手の実写映像にでてくる人間の姿にそれほど注意を払ったことがなかった。今思うと、強烈で個性の持ち主よりは、フツーの人が出演していた気がする。ところが、それが人間の姿をしたCGに代わった途端にフツーではなくなってしまう気がするのだ。それはまた強烈な個性の持ち主でもない。フツーでもなく強烈でもないがゆえに、それはどこか落ち着きどころのない微妙な不安を与えてしまう。あなたはいったい誰なのか・・・という捕捉不可能性。
 どうもCGがリアルな描写に近づけば近づこうとするほど、リアルとして受容されなくなってしまうという矛盾があるような気がしてならない。それは名前があればいいとかのレベルにしてはならないだろう。問題はなぜCGが人間の描写においてリアルなるものを目指さなくてはならないのかという、当たり前と言えば当たり前なことである。CGを観た時についつい発してしまう「これって本物みたいだね」。そんなひょっとした一言、それがどれほどCGのリアル志向を強化してしまうのか、リアル志向ではないCGの居場所を周縁に追いやってしまっているのか、それを問うてみてもよいのではないか。
 さぁ、今夜も「CGじゃないってば!」(みうらじゅん安斎肇)の時間ですよ。