二つの「一人前」。

 「役ではなく、一人の表現者として…」。この差異に敏感になってしまった沢尻エリカ(数日前まで「沼尻エリカ」だと思ってた…)は、これまでの言行は別に、可愛そうである。「自分」でありながら、「自分」ではない。しかし「自分である」と、言わないわけにもいかない。こうした主体の代替可能性をめぐる葛藤に、どれだけ耐えられるのか。常に最大限の効果を上げようとする大衆文化において、「一人前」になるのは決して楽なことではない。
 
 ところで「一人前」は、色々な職種で語られる。しかし多くの「一人前」は、その当事者でも簡単には言語化できないマジックワードである。にもかかわらず「一人前」は、ビギナーへの殺し文句として機能する。そのためか、「一人前」はこれまでにいくつか研究されてきたようにも思える。
 
 例えば、京都・花街の芸舞妓。「一見さんお断り」の世界で、人はいかにして「芸舞妓さん」になっていくのか。この「秘密」の世界を解きほぐすことで、「髪のときつけ、かんざしの挿し方、季節にあわせた着物と帯の組み合わせ、さらに座ったときや立ったときの裾の柄の見え方への気配りなど、お座敷の芸舞妓さんたちの様子を見ていると、そこには言葉にすることのできない、「らしさ」にもとづく美意識が共有されている」(西尾久美子『京都花街の経営学東洋経済新報社、2007年、pp.168-169)ことが、次第にわかってくる。
 
 例えば、バイク便ライダー。「「やりたいこと」を仕事にする」世界で、人はいかにして「ワーカホリック」になるのか。この「からくり」を解きほぐすことで、趣味を捨ててでも「かっこいいとはいえないバイクに乗っている」ことや、「「かっこ悪い」と思っていた細見のバイクが「かっこよく」見えてくる」(阿部真大『搾取される若者たち』集英社新書、2006年、pp.40-41)過程が、次第にわかってくる。
 
 これら二つの「一人前」は、それぞれに「秘密」や「からくり」を明らかにしようとする点で共通する。しかし両者は、異なる「面白さ」扱っていることに注意したい。
 
 「芸舞妓」では、外部から不可視な世界がフィールドワークによって描かれる(私たちは、若くして「芸舞妓」になる機会を逃したら、その職業を選択することができない)。この場合、知見(図解化されたキャリア形成などは、固有性を持つとは言えない)は平凡であっても、簡単には知り得ない対象の特殊性が面白さとして光る。
 
 「バイク便ライダー」では、外部からも可視的な世界がフィールドワークによって描かれる(私たちは、今からでも「バイク便ライダー」にはなれる)。この場合、対象は平凡であっても、外部からの観察では理解が難しい内部の独自性がわかってくるという点において、対象をめぐる知見が面白さとして光る。
 
 「不可視な世界を可視的にする」のか、「可視的な世界の見え方を変える」のかは、書き手自身ではなく、対象そのものが決めることであろう。「芸舞妓」なら、「一人前」になるまでの過程を普通の人では知り得ないので、その内部を「描写」することが面白くなる。「バイク便ライダー」なら、「一人前」になるまでの過程を自分のこととして想像できてしまいそうだからこそ、「そうでもないこと」が明らかになって面白くなる。
 
 方法があって、対象を選ぶというよりも、対象を選んでから、それに適した方法を選ぶほうが、「一人前」を書くのは楽しいだろうと思う。個人的には、一人前を「専門職」「キャリア形成」「実践の共同体」「OJT」などと言い換える経営学・組織論的な実直さよりも、一人前の平凡さを奇妙さへとひっくり返してしまう社会学の嘘つき加減のほうが好みではありますが。

京都花街の経営学

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搾取される若者たち ―バイク便ライダーは見た! (集英社新書)

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