エンブレムの最終候補4作品について

 2015年9月に撤回され、再募集することになった東京五輪2020のエンブレムは、エンブレム委員会による審査で4点に絞られ(応募総数:14,599→形式チェック:10,666→一次審査:311→二次審査:64→三次審査:4)、商標に関する調査と手続きが完了し、最終候補の4作品が公開され、国民から意見を募ることになった(https://tokyo2020.jp/jp/games/emblem/evaluation/)。最終審査は4月25日に行われ、エンブレム委員による議論と投票を経て決定し、理事会で承認する運びだという。

 この件についての見解は『毎日新聞』(2016年4月9日朝刊、http://mainichi.jp/sportsspecial/articles/20160409/k00/00m/050/085000c)にも掲載してもらったが、以下ではその元原稿を公開する。200字の予定と言われ、記者会見から一時間でまとめらたのは600字だった(笑)。一言で言えば、東京五輪2020のエンブレムは「パクリかどうか」から「出来レースかどうか」を経て「日の丸に見えるかどうか」に落ち着くのではないかと思う。

 【総評】今までになく丁寧に選ばれたと思うが、子どもが真似できない模様だなと思った。多様性を肯定する時代になって、デザインの構成要素や色が複雑にならざるを得ない現状を見せられたようにも思う。そしてこれに商標や様々な制約条件が加わるので、シンプルなデザインで独自性を主張できない現代社会を象徴しているように見える。
 【個別評価】最終候補4作品についてはエンブレムだけでなく、タイトルやコンセプトと一緒に評価したほうがよい。説明があれば、デザインの見方を定められるからである。説明がなければ、見た目の印象論が一人歩きする。その上で見解を述べると、A案は「多様性という価値」、B案は「動きと速度」、C案は「身体の拡張」、D案は「未来への時間」を描いているように見える。
 【最終審査に向けてのポイント】円の要素をどれだけ残すのかだと考える。円の要素が多ければ、エンブレムを「日の丸」として見ることも可能になる。円の要素が少なければ、それをどのように見ればよいのかというコンセプトが重要になってくる。国旗を想起させない微妙な工夫をどう評価するのかがポイント。
 【選考過程について】参画や透明性が強調され、今までよりは開かれていたと思う。しかし、このプロセスの殆どに関わった市民がどれだけいたのかは疑問で、インターネットのなかのお祭りだったようにも見える。またエンブレムは公式スポンサーが利用することが前提なので、そもそも市民が自由に使えるわけではない。公式スポンサー以外も使える「第2エンブレム」のほうが、市民参加と相性がよいとも思う。

 総評の「子どもにも真似できない模様」が記事で削られたのは、とても残念。しかし「多様性を肯定する時代になって、デザインの構成要素や色が複雑にならざるを得ない現状」はとても重要なので、掲載されてよかった。要するに、多様性を認めれば認めるほどいろんな要素をデザインに盛り込まなくてはならなくなって、子どもにはよくわからないデザインになるよねってお話。
 個別評価は従来通りの主張で、デザインをどのように見るのかはコンセプトと不可分の関係にあるってお話。大喜利をしてもいいけど、その前にコンセプトは読んであげてねと言っておきたかった。個人的な見解は急いで書いたものなので、もう少し時間をかけてゆっくり見てみたい。
 最終審査に向けてのポイントは、国旗との切り離しをデザインを評価するポイントにすれば面白くなるのではないかと思った。円の要素は出てくるだろうと思ったので、その消し方を競い合うようなコンペティションになったと思う。
 選考過程については、書いてあるとおり。いやしかし、エンブレムを使えるのは公式スポンサーであり、市民は自由に使えるわけではないってことを強調しておきたかった。ここまで騒いで「市民参加」を導入したのだが、そもそもというお話。
 新聞記者に「どれが一番だと思いますか?」と聞かれたが、「4つに共通点はないので序列はつけられない。あとはどのコンセプトを選ぶのかという決断だと思う」とお返事した。個人的には、似たようなものを4つ選ぶのではなく、似ていないもので4つまで絞り込んだことは評価したいと思う。
 以下は昨晩の段階で用意していた草稿。書いておいてよかった。

 2015年9月に撤回され、再募集することになった東京五輪2020のエンブレムは、エンブレム委員会による審査で4点に絞られ(応募総数:14,599→形式チェック:10,666→一次審査:311→二次審査:64→三次審査:4)、商標に関する調査と手続きが完了し、国民から意見を募ることになった(25日に正式決定の予定)。
 エンブレム委員会の設置(9月)から最終候補案の公開(4月)までを振り返ると、ここまでの作業は最優先で進められたように見える一方で、国民の関心は旧エンブレムのようには高まらなかったように見える。原作者の問題とは別に審査委員会での不正および不適切な行為が明らかになり、組織委員会への信頼やオリンピックそのものへの期待が高い状態にあるとは言いにくいからである。
 閉鎖的と批判された前回の反省を踏まえ、今回は市民参加を強く意識したと思う。まず、再募集する前にインターネットを使って広くアイデアを募集した。そして、18歳以上なら受賞歴に関係なく誰でも応募できるようにした。さらに、選考を行うエンブレム委員にはデザイン関係者以外も多く含まれ(デザインのチェックはグラフィックデザイナーが行った)、審査の一部は動画配信も行った。このプロセスの殆どに関わった市民がどれだけいるのかはわからないが、少なくとも今までよりは開かれていたとは言える。専門家に任せると選考結果を知らされるだけなのだが、市民参加で選ぶと決定までの手続きが冗長に見えることもある。
 応募要項に従えば、タイトル(20字)やコンセプト(200字)と一緒に提出されているはずなので、エンブレムだけで評価すべきではない。エンブレムをどのように見ればよいのかは、タイトルやコンセプトと不可分の関係にあると考える。オリジナルだと思っていたものが模倣にしか見えなくなってしまったように、説明の仕方が変われば、デザインの見え方も変わる。説明がなければ、見た目だけの印象論が一人歩きする。エンブレムに対してどのようなコンセプトが与えられているのかを見極めた上で、市民がそれぞれに自分たちの見方を語ればよいのではないか。
 エンブレムは公式スポンサーが利用することが前提なので、使用ルールは厳しく、そもそも市民が自由に使えるわけではない。再募集を経て最終候補案まで絞り込まれたわけだが、誰もが使えるわけではないエンブレムに対して、市民がわざわざどのような意見を言えばよいのかは意外と悩ましい。公式スポンサー以外も使える「第2エンブレム」を作るという案も出ており、こちらのほうが市民参加で選んでいくことと相性が良いようにも思う。
 東京五輪1964のシンボルマークが印象に人びとの残ったのは、日本の国旗さえ知っていれば、誰でもあの赤い丸を「日の丸」と重ね合わせて理解できたからである。これに比べて、札幌五輪1972のシンボルマークや長野五輪1998のエンブレムをどれだけの人が記憶しているだろうか。エンブレムに円の要素を残せば、それを「日の丸」として見ることも可能になり、説明が少なくてもわかったことにできる。エンブレムから円の要素が消えれば、それをどのように見ればよいのかというもっともらしい説明が必要になってくる。どのようにでも見ることのできるデザインに対して、「そういう説明がありえるのか!」と驚かせてくれるエンブレムであってほしい。