グラフィックデザインと模倣の歴史的な関係:亀倉雄策と佐野研二郎

 2015年7月24日に2020年開催予定の東京オリンピックパラリンピックの「エンブレム」が発表され、その約一週間後にベルギーのデザイナーが制作した劇場「Theatre de Liege」のロゴマークと「酷似」していることが話題となった。前者を制作したのはは佐野研二郎(アートディレクター、多摩美術大学教授)、後者を制作したのはオリビエ・ドビ(Studio Debie)である。

 経緯としては、「友人から電子メールで知らせがあり驚いた。類似点が多くある」とオリビエが認識し、Facebookに記事を投稿してから拡散的に知られるようになった(https://www.facebook.com/StudioDebie/photos/a.306570046078725.70557.306563286079401/883470945055296/?type=1)。また、スペインのデザイン事務所が東日本大震災の復興支援のために制作したものと「配色が同じ」という指摘も登場し(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150730/k10010171901000.html)、インターネット上では批判的な議論が繰り広げられている。

 こうした動きに対し、東京オリンピックパラリンピック組織委員会は「各国の商標をクリアしており、問題になるとは考えていない」という見解を示し、IOC(国際オリンピック委員会)のマーク・アダムス広報部長は「ロゴのデザインで同じことはしばしば起きる。リオデジャネイロオリンピックロゴマークも、多くの人が『ほかのロゴとデザインが似ている』と言っていた」と話している(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150730/k10010171901000.html)。

 また佐野と同じくコンペティションに参加した森本千絵(アートディレクター)は「私もやりきったし気持ちよい。佐野さんのエンブレムは代表して選ばれたわけで誇りに思うし応援したい」と述べており(https://twitter.com/morimotochie/status/624964454321537024)、佐野の同僚でもある中村勇吾ウェブデザイナー多摩美術大学教授)は「今回のエンブレムのオリジナリティについてはこの映像の後半によく表現されている。あるひとつのシンボルに集約されるのではなく、多様に発散していく形態のシステム」とも述べている(https://twitter.com/yugop/status/626601871835164672)。

 さらに、グラフィックデザインの業界誌『アイデア』の編集長でもある室賀清徳は「個人の感想」と前提して、「元ネタとされる劇場のは頭文字の「T」と「L」をモダン・ステンシル書体風味で一体化させてるのがポイントで、東京五輪はあくまで幾何的図形の構成をベースにTとOとIとLを表現するマークを作ったということだと思う」(https://twitter.com/kiyonori_muroga/status/626385596391370753)と書き込んでいる。

 このように、今回の事態は視覚的な類似点への気付きがインターネット上で拡散・連鎖したものであり、これに対して選考関係者やデザイン関係者がそれぞれの見解を述べていくという形をとっている。また内容としては、模倣を問題視する意見に対して、選ばれたデザインをどのように見ればよいのかと解説する意見が投げ返されている。本稿はこのようにインターネットで元ネタ探しと告発が行われてしまう独特の厳しさをとても興味深いと思うと同時に、このようにしてグラフィックデザインに対する模倣を指摘することは今になって始まったことではなく、それこそ1964年の東京オリンピックロゴマークをデザインした亀倉雄策にまで遡ることのできる出来事だということを紹介したい。

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 2015年7月24日の記者会見において、佐野は今回のデザインが1964年の東京オリンピックロゴマークをデザインした「亀倉雄策の影響」を受けていると話している(http://www.japandesign.ne.jp/editors/150729-tokyoolympic/)。また先に挙げた中村勇吾によれば、佐野のデザインは「1964年の亀倉雄策による究極のシンボルに対する明確な回答にもなっている」という(https://twitter.com/yugop/status/626601871835164672)。このように今回のデザインは、本人やその同業者も認めるほど亀倉雄策との関連を語らずにはいられないものになっている。

 それでは、亀倉雄策(1915-1997)とは一体何者なのか。一般的に広く読まれた書籍によると、様々な国家的イベントや大企業のポスターやシンボルマークを手掛けてきた亀倉は「日本のデザイン界を背負って立つ男」(野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』小学館、2011年、p.10)だと言われる。またデザイン史的な記述においても、「世界が認めたジャパンデザインの象徴」(『亀倉雄策のデザイン』美術出版社、1983年/2005年、帯文)と書かれるように、日本を代表するグラフィックデザイナーの一人として理解されている。

 ここで注目したいのは、その亀倉も模倣に手を染めていたことであり、また模倣の指摘を他者から受けてもいたことである。例えば、1951年の広告業界誌『広告と広告人』には以下のような記事が掲載されている。

「近頃、廣告界の話題として模倣とか盗用とか余り香しくなく話が專らである。今更事新しくとり立てて言うのが可笑しい位である。次に最近問題になったのは亀倉雄策氏の「包装」の表紙図案である。美術批評家植村鷹千代氏が辛辣な筆彈を朝日の文化欄にぶっ放した。スイス・グラフィース所載RIRIのチャックの廣告「河馬」の絵を盗用したというのである。模倣と創作の限界はまるで鶏と卵のように難しく、模倣と盗用も時に於てデリケートな問題にぶつかる。模倣とは善意の盗用か、盗用は文字どおり悪意の模倣か…全くややこしい。…(中略)…。ベテラン亀倉、彼が有名人だけに風当たりは彼がまともに食ったのである。成程、盗用と言われれば盗用であろう。そうなれば叩けば濛々たるホコリはあながち廣告作家の世界だけに限らぬことは知れきっている。…(中略)…。亀倉氏は「正しい批評だよ」と言っているだけに男らしい。」(狛江孝平「廣告時評」『広告と広告人』(第3号)丹青社、1951年) 。

 そして、この件については数年後に亀倉自身が以下のように認めている。

「実は私は今から8年か9年前、日宣美ができる以前、日本ではまだデザインというものが社会的に認められないころ「盗用作家」として1度朝日新聞で非常に大きくたたかれた人間で、…(中略)…。そのころ2千部か3千部ようやく出していたような雑誌に私は表紙をかいたのです。ちょうどスイスから初めて薄っぺらな雑誌が届いて、それにカバの絵があった、これがいけなかったのです。アイデアに困って苦心していたのですが、実は私もそのころは今みたいではなくもっとずっとやせておりまして、とにかく何とかしなければならない、カバを書きたい、そう思ったのですが、そのカバを写生するだけの気力もないわけです。また動物園にもカバはいなかった。何かいいのはないかと思って写真を一生懸命探したが写真もない。しょうがないから書いちゃった。もちろんうまくない、へたですけれども、そのカバの首を原画と逆に左へ曲げればよかったのを右へ曲げたのがいけなかった。カバの首を左に曲げて、おしりにラジオが乗っかっていてちょっとしたものでしたがそれを何のことなしに首を右に曲げた、それがぼくの失敗です。その首をぐっと左に回せば目につかなかったかもしれない」(亀倉雄策「盗用と影響」『全日本広告技術者懇談会記録』電通、1958年)

 『朝日新聞』の記事データベースでは当該記事を発見することができないのだが、少なくとも告発した側とされた側の主張は噛み合っている。1950年代前半の日本社会においては外国雑誌の流通が限られており、それゆえにその稀少性を利用した制作がなされ、それが結果として「模倣」や「盗用」と呼ばれてしまったというわけである。

 なおこうした傾向は亀倉に限ったことではなく、グラフィックデザイナーの職能団体である日本宣伝美術会でも問題になっていた。例えば、「模倣の罪 いまだに多い。有名作家でもやっている。モチーフだけいたゞいたのはまだいゝが、中にはトレーシングペーパーでしき写したようなのがある」(やなせたかし「デザイナー七つの大罪」『JAAC』(No.2)日本宣伝美術会、1954年)というように、西洋社会の模倣を疑われる日本のグラフィックデザインという問題は1950年代から生じていたものである。

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 このように、1950年代におけるグラフィックデザインの模倣は同業者や批評家によって告発されるものだった。しかし、1960年代になると一般人からも模倣が指摘されるようになり、その矛先が亀倉雄策に向けられたりもした。例えば、1960年の雑誌『デザイン』の読者投稿欄「デザインの広場」に次のような投書が掲載されている。

「近着のSwiss Watch and Jewelry Journal誌に掲載されている、スイスの時計メーカーAudemars Piguet社の広告の一部と貴誌『デザイン』3月号の表紙とは、全く同一と思われます。デザインにおける創造ということの大切なことを強調され、模倣を徹底して攻撃されている同亀倉氏の日頃の発言に共感をもつものとして、もし『デザイン』誌3月号の表紙が単に外国雑誌からぬきとったものだとすれば亀倉氏の対社会的な発言とも矛盾したはなはだ残念なことと思います。氏の誠意ある説明がほしいと思います」(小林松雄「グラフィックデザインの模倣について」『デザイン』美術出版社、1960年11月号)。

 そして、この件について亀倉は以下のように応答している。

「これは模倣でも盗用でもありません。最初から中世期の銅版画を利用することを目的に作ったものです。スイスの時計の広告も、やはり中世期の銅版からとったものです。この中世の技術図版は著名なもので、この復刻版が、最近アメリカから上巻、下巻の大冊で刊行されています。ですから、このスイスの時計の広告の銅版画は現代作ったものではありません。デザイナーがこの古い技術の本から複写して、それに品名をレイアウトしたものです。…(中略)…。あなたが強調されているスイスの時計の広告も私と同じように中世の銅版画を利用したものです。しかもデザイナーは、それを料理しないで、そのままナマに利用したわけです。…(中略)…。こういう銅版画は、技術者や科学者が、写真のない時代に描いたもので、従って無性格のものです。博物の鳥や蝶の絵と同じもので、作者があるというものではないのです。そのような無性格なものに、デザイナーが性格を与え表情を与えることも、ひとつの仕事であると思います。以上あなたの質問に答えたつもりですが、いかがでしょうか。あなたがもし、それでも私をおせめになるならば、スイスの時計会社のこのデザイナーも私同様せめられねばならない筈です」(亀倉雄策亀倉雄策氏の返事」『デザイン』美術出版社、1960年11月号)

 重要なのは、模倣を指摘された亀倉の対応が先の事例とは異なることの意味である。先の事例においては、同業者に模倣が蔓延るなかで自分もやってしまったことを認めている。しかし、この事例においては模倣や盗用でないと否定している。こうした対応の違いが生じるのは、後者の事例においては「全く同一と思われます」というように、視覚的な同一性だけが根拠にされているからである。つまり同業者や批評家であれば共有していてもおかしくない専門的知識が参照されないまま、結果としての制作物だけが問題にされている。だからこそ、亀倉はわざわざどのようにして制作したのかを丁寧に語らされてしまっているのだ。

 なお、こうした傾向も亀倉に限ったことではない。大阪万国博のマークがアメリカのデザイン書にのっている模様の一部と似ているといった指摘(『朝日新聞』1966年9月29日)や、札幌オリンピックのマークの構成要素の一つ〈初雪〉の紋が盗用ではないのか(『朝日新聞』1966年10月10日)といった指摘が相次ぎ、「このような問題が一つ起こると連鎖反応を示すようである。これは何も急に盗作が多くなるわけではなく、一般の好奇心がそこに集中されるため、少しでも似ているものを見つけると投書などの方法でどんどん摘発される」(永井一正「デザインの創造と盗作」『朝日新聞』1967年9月13日)とまで語られていた。1960年代にグラフィックデザインを見ることは、それと似ているものを探すことと結びつきやすくなっていたのである。

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 このような動きは、デザイン雑誌の読者が制作物という仕上がりだけを見て、デザインについて語ることがそれなりに可能になってきたということを意味している。1950年代のグラフィックデザイナーにおいては学習対象だった専門的知識が、1960年代の人びとには模倣にしか見えなくなってきたのである。それでは、どうしてこんなことになったのか。

 一つには、1960年代になってグラフィックデザイナーを目指す若者が急増したことが挙げられる。グラフィックデザイナーの登竜門と呼ばれた日本宣伝美術会へのエントリー数は1957年から1962年にかけて二倍になっている。また美術系教育機関への志願者も急上昇し、「戦前、美術学校を受験するような学生は、大体、自己の天分についての自覚をもっていたが、戦後はそうした学生は少なくなった。文科系や理科系の学校を受験するのと同じ気持ちでやってくるのもいる。絵画に興味を持ったこともないという勇敢な学生さえあらわれる。…(中略)…。そのためか、基礎の勉強をいやがる風潮があり、デッサンには手を触れず、初めから絵の具で描きたがる」(「デザイン科は花ざかり」『朝日新聞』1961年2月22日夕刊)とまで語られるようになっていた。要するに、グラフィックデザイナーを目指す学生が増えたことで専門的知識を丁寧に教えて育てるという「やり方」が難しくなってきたのである。

 二つには、1960年代になって「モダンデザイン」という専門的知識が深く信じられなくなったことが挙げられる。というのも、先にも挙げた日本宣伝美術会においては1960年代半ばまでに「グラフィックデザインの機能性、その表現の技術という2つの要素が、ほぼ1つの到達点に達した」(中原佑介「第13回日宣美展を見て」『調査と技術』電通、1963年10月)という見え方が生まれていたからである。1951年に始まった日本宣伝美術会は、「バウハウス的なデザインの流れをくんで、合理的、機能的な視覚像の追求ということが、グラフィックデザインを独自なものにするための第一の手がかり」と考え、「日本のグラフィックデザイン分野の確立は、亀倉氏ら構成主義によって達成された」と言えるまでになったのだが(浜村順「日本のグラフィックデザイン」『調査と技術』電通、1960年3月)、その分だけ、丸・三角・四角といった抽象的な図形の組み合わせでしかないモダンデザインの表現が出尽くしたかのようにも見えてきたのである。1960年代半ばに日本宣伝美術会のあり方を批判した横尾忠則らが「イラストレーター」を名乗り、モダンデザインに回収されることのない制作物を発表するようになったのは、こうした動きの結果でもある。

 つまり、グラフィックデザイナーを目指す若年層が増え、かつモダンデザインという専門的知識が信じられにくくなったことにより、1950年代と1960年代とではグラフィックデザインに対する理解の仕方に違いが生じやすくなっていた。そしてこのような社会的背景があったからこそ、デザイン雑誌の読者が制作物の視覚的類似性だけを見て、デザインについて語ることがそれなりに可能になっていたと考えられそうである。

 あえて言えば、「素人」が社会的に増えたことにより専門的知識が部分化され、「何を達成しているのか」を評価することよりも、「失敗探し」の次元で面白がるほうが、グラフィックデザインに関わる「みんな」を成立させやすくなったのである。こうしてグラフィックデザインに関わる人が増えたことで、グラフィックデザインに対する理解の仕方が変わり、またその変化がさらに関わろうとする人びとに利用されることで、何をどこまでグラフィックデザインと理解するのかが書き換えられていくのである。

 ここまでを踏まえれば、今回の騒動はデザイン史が好んで取り上げる亀倉雄策の制作物に学べというよりも、亀倉が向き合ってきた人びとにおけるデザインの理解の仕方において学ぶことがあるように思う(加島卓『〈広告制作者〉の歴史社会学:近代日本における個人と組織をめぐる揺らぎ』せりか書房、2014年)。歴史的に言えば、亀倉だって模倣をしていた。それを認めて詫びることもあれば、反論として説明責任を果たすこともあった。だからこそ、亀倉は今でも評価されているのだ。

 人びとのリテラシーが上昇すれば、批判の声が増えることも避けられない。そういう「豊かな社会」において、デザインを制作する側には亀倉が果たそうとして苦労した説明責任が求められ、批判する側には相手の立場にもなってよりまともな意見を届けていくことが求められよう。絶対に批判されないデザインはありえない社会において、それでもそれなりに説明を尽くそうとするデザインとそうした根拠付けにそれなりに耳を澄ますことが、現在の人びとには求められているように思う。(2015年7月30日)