2004-03-01から1ヶ月間の記事一覧

姜尚中『在日』講談社、2004年

「他者の声に耳を澄ますこと」の難しさ。にも関わらず「やさしく在り続けること」。喋ったことがそのまま本になる姜尚中から学んだことは少なくない。自伝と呼ぶには早すぎる本書は母(オモニ)への想いで貫かれている。「書籍」という方法は識字的に差のあ…

多層的な経験としての<読書>

寄り道をした。そういう時もある。改札を出て階段を下ればティッシュ配りのニイちゃん達がいる。やっぱり今日も無視された。欲しい時にもらえない。声をかけてくるのはバンド系ばかり。髪が長いだけで「仲間」にされてもねぇ。 先日サイン会にいった。「サイ…

天野祐吉編「広告」『日本の名随筆』別巻23、作品社、1993

広告との出逢いに耳を澄ましてみよう。鶴見俊輔(「私の愛読した広告」)は言う。「きれいにだまされると、その広告にたいしても、あまりにくしみはわかないようである」。これほど広告とのつきあい方を簡潔に表現したものはない。だから僕らは広告を「騙そ…

コンピュータの前に在るということ

デスクトップコンピュータの前に座らされている気がしてならない。ノートコンピュータがないと随分と不便なものである。<書く>という行為がいかに道具との関係で成り立っているのかが良くわかる。キーボードに手を置くことがいやなんじゃない。デスクトッ…

<声のかけ方>

新幹線に乗った。随分と騒音を出す乗り物だと思うのだが、乗ってしまえばその気がほとんどしないのは不思議不思議。おかげでしっかり眠れまス。 さてこの2日間は論文を読み、その執筆者と読者が生産的な議論をする場を設定した。非難ではなく批判のために。…

フジテレビ「第33回広告大賞」2004年3月20日(土)14:35〜15:50

スタジオゲストにマペットパペットがでている。スタジオがウケているときに、彼の表情が見えないまま手許の牛とカエルを動かさなくてはならない彼の姿は観ててつらい。また別のゲスト、女子十二楽坊に思うのはこの先の行方である。「芸能人化」した後の行方…

ユーザビリティーと政治

よーくみてみよう。もちろん都立学校の卒業式における旗の位置や歌の唄い方などめぐっていろいろな立場から声があがっているのは知っている。儀礼としての卒業証書授与をめぐって「何が適切なのか」を議論するつもりはないし、それは現在の僕の出来るところ…

松谷みよ子『現代民話考(12) 写真の怪・文明開化』、筑摩書房、2004年

カメラを向けてはいけない場所がある。理由はわからない。とにかく「いけない」のだ。そうしたローカルな言い伝え、人々の語りのなかに僕たちは当時のメディアの経験のされ方を発見していくことができるだろう。『現代民話考(8) ラジオ・テレビ局の笑いと…

色紙は誰に語っているのか

色紙をもらった。いつ以来だろうか。苔のように散在するメッセージ達。そんなに沢山あるわけではない。それでも凸凹した筆跡はフォントに馴らされていた僕の目をゆっくりと時間をかけて揉みほぐしてくれるだろう。 この手の贈り物の「お約束」といえば、書き…

吉見俊哉、花田達朗、『社会情報学ハンドブック』、東京大学出版会、2004年

いつまで続くかわからないがとりあえずいまのところは「社会情報学」を大切にしたい。60弱の「扉=項目」のなか、「進化とコミュニケーション」(平石界)、「リアリティ・テレビ」(北田暁大)あたりが響きとしては新鮮。 進化論的視座からコミュニケーシ…

式典のデザインと記憶

式典なるものに出た。所属組織が閉所されるのである。75年間の歴史、その結びにおいて特別に記憶にのこるような挨拶は見つからなかった。そんなにスラスラと語れてしまうものなのでしょうか。ええぃ、素直に言ってしまおう。この式典はいったい誰のために…

橋爪紳也『飛行機と想像力』青土社、2004年

この人も多産だなぁ。「航空機そのものについては素人」でもいい。「飛行機」という経験がもたらした視覚への欲望や時空間感覚は、ヴォルフガング・シヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史』(法政大学出版局、1982年)の仕事のように示されるべきだろう。それだ…

CGじゃないってば!

飛行機(ANA)に乗った。ついつい窓の外に視線がいってしまうのだが、なぜか今回は機内放送をまじまじと。離陸前にスクリーンに映し出される「お約束」の映像を想像してみてほしい。機内に酸素が不足した場合、緊急着陸をする場合、非常口から滑り台で脱出す…

ジャック・ブレーブス著、岡部英雄/本郷均訳『合理性とシニシズム 現代理性批判の迷宮』、法政大学出版会、2004年

「シニシズム」とあるとついつい手にとってしまう。その程度の理解(?)でしかないのだが、僕的には「シニシズム」がもつ「希望のなさ、目的のなさ、諦念、無関心」が生み出す「何でもかまわない」的「相対主義」を、メディアと人間の関わり方で考えてみた…

鶴見俊輔、上野千鶴子、小熊英二『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』、新曜社、2004年

東大が嫌いな人間は少なくないと思うが、鶴見俊輔はそれを電車の中で大声で表明していたという話を聞いたことがある。ある時は自由主義に、またある時は軍国主義に従順たろうとするしたたかな「知識人」=「学校エリート」を生産し続けた装置として東大が鶴…

前川修『痕跡の光学 ヴァルター・ベンヤミンの「視覚的無意識」について』、晃洋書房、2004年

いわゆる博論本には「誰が買うのだろうのか」という素朴な疑問をもちかねない値段設定が多い。きっと僕みたいな貧乏学生は博論本のマーケティングターゲットには含まれていないんだろう。値段だけで判断すれば、より広範に「読まれること」よりも図書館に「…

「プロレス化」の帰結

何かが飛んでいる・・・。も、もしかして「アレ」では?映像をみていない僕はそれが何なのかを知らないが、あえて2つの解釈をしてみよう。「アレ」が画像右の人間によって騎馬戦のように取り上げられたのか、それともこの事態への怒りの表明として議長席に…

「論文作法」

青い上海が街にやってきた。誰にでも予想できた色ではあるけれど。青系のコンビニといえばローソンだが、それは柔らかい水色である。コンビニの色を想像してみよう。どこも原色系を前面にはだしていない。がゆえか、今回のファミリーマートの青はとても目立…

「番組の本質」といわれてもねぇ

テレビ東京系でセサミストリートがローカライズされる。NHKは「日本語による新番組への切り替え」を断る理由として「視聴者に親しまれてきた番組だけに、原作を変えての放送は番組の本質にかかわる」としたようだ。いやいや、これはないでしょう。 セサミ・…

「世界で勝負できるプロデューサー」とは誰か

「私はそこにいた」を顕示する大塚英志の「おたく」論にはうんざりしてしまう。「おたく」はその嗜好が問題なんじゃない。対象への愛によって生み出される語りが奇妙なのだ。だから大塚が「おたく」かどうかはどうでもいい。「実はみんなが思っているよりも…

制度化をめぐって

メルプロジェクトでの一言を挙げるのなら、「メディア・リテラシーを身体化した人間とは何者なのか」(吉見俊哉)である。「メディア」は無色透明でないとする「メディア・リテラシー」もまた無色透明ではない。そうしたことが巧妙に脱色されたまま「メディ…

「メディア・リテラシー」という魔法

今夜もまた「ナイキ」かと思えば「ペプシ」が。耳を澄ましてみよう。なんでジョルジーニョがボールをもった瞬間にだけ「ピーヒャラピーヒャラ」いうんでしょ。緊張してんだか、していないんだか。ま、いいか。 アルジャジーラ・スタジアムからサイレンが聞こ…

<教養>の隙間

それは突然だった。携帯に「出会い系サイトの使用料金が未払いなので連絡をしました」と。その瞬間に「あ〜あ、ハズレちゃったね」と思いつつ、ここは「名義はどなたですか」と相手の出方をまつ。「この電話番号を調べればわかる」と反応に「あ、やっぱりネ…

2つの「あの時」

近所から大きな歓声が聞こえた。ああ、そうか、きっと代表チームが得点したのだろう。 予選を見るたびに思い出されるされる2つの「あの時」。「ドーハの悲劇」の瞬間、テレビが壊れたかと思った。同点ゴールの映像を疑ったんじゃない。テレビから音声が聞こ…

都市はメディアである

いいじゃないか、そんなに残念がらなくとも。「アカデミー賞」っていわれてもねぇ。コンクールは不思議である。受賞すればきっと嬉しいだろう。それでも「これってそんなに凄いこと?」という素朴な問いはいつもある。受賞の意味が共有されていない人にとっ…

制服と視線

不思議な色の学生服を着ていた。「匿名の先輩から君たちの行動について連絡があった」とかなんとかを先生から聴くと「随分とヒマな人がいるもんだ」と笑っていた。「ブルセラ」ブームの夜明け寸前だったあの頃、男子校生にとって制服は着るものでしかなかっ…